第1章:高級イタリアンと、スマホを奪う「完璧な彼氏」
シャンデリアの眩い光が、磨き上げられた大理石のテーブルに反射している。
予約が半年待ちだという都内の高級イタリアンレストラン。
場違いな空間に、高梨澪は居心地の悪さを感じていた。
「澪、顔が強張ってるよ。もっとリラックスして」
向かいの席で優雅にワイングラスを傾けるのは、他大学の4年生である白鳥蓮だ。
誰もが振り返るような端正な顔立ちに、仕立ての良いスーツ。
裕福な家庭で育った彼は、立ち振る舞いのすべてが洗練されている。
苦学生である澪にとって、彼は本来なら接点すら持てないような「完璧な彼氏」だった。
「ご、ごめんなさい。こういうお店、初めてで……」
「謝らなくていいよ。君のそういう擦れていないところ、俺は好きだからね」
蓮は甘く、優しい微笑みを向けてくる。
周囲の女性客がチラチラとこちらを盗み見るのがわかった。羨望の眼差しだ。
それでも、澪の胸の奥には、鉛を飲み込んだような鈍い違和感が常に付きまとっていた。
「でも、その服は少し残念だったな」
不意に、蓮の冷たい声が落ちた。
澪はビクッと肩を震わせる。
今日のために、なけなしのバイト代から捻出して買った、淡いピンクのワンピース。
「君の肌にはもっと上質なシルクが似合うのに。そんな安っぽい化学繊維の服じゃ、君の価値が下がってしまう。次からは、俺が選んだ服だけを着てくれないか? 君が恥をかかないように、俺が守ってあげたいんだ」
心配そうに眉を下げる蓮。
言葉の表面だけをすくえば、それは恋人を思いやる優しい提案に聞こえる。
だが、その瞳の奥には、有無を言わせぬ絶対的な支配欲が揺らめいていた。
「……うん、ありがとう」
逆らうことはできない。澪は小さく頷くしかなかった。
親の借金と奨学金を抱え、妹・柚葉の進学費用も稼がなければならない澪にとって、自己主張をする気力など残されていなかった。
「素直でいい子だ」
満足そうに微笑んだ蓮は、ふと、テーブルの上に置かれていた澪のスマートフォンに視線を移した。
「そういえば、澪。ちょっとスマホ、見せてくれる?」
「えっ……?」
「見せられない理由でもあるの?」
すっと、蓮の顔から表情が消えた。
空気が凍りつく。
澪は慌てて首を振り、ロックを解除したスマートフォンを差し出した。
蓮はそれを受け取ると、滑らかな指先で画面を操作し始める。
「へえ。大学のグループLINEとはいえ、男の名前が結構あるんだね」
「そ、それはゼミの連絡用で……」
「澪。俺はね、君が心配なんだよ」
蓮はため息をつき、澪の手をそっと握った。
その手は冷たかった。
「君みたいな無知で安い石は、俺が管理しないとすぐ泥棒に狙われるからね。愛してるから、連絡先、全部消せるよね?」
優しい声。
しかし、それは明確な命令だった。
男友達、ゼミの同期、親しくしていたサークルの先輩。
蓮の指先が、澪の人間関係を次々と消去していく。
澪は息を詰まらせ、ただその光景を見つめることしかできなかった。
心が、少しずつ削り取られていくような感覚。
「……ごちそうさまでした。ちょっと、お手洗いに行ってきます」
息苦しさに耐えきれず、澪は逃げるように席を立った。
パウダールームの鏡に映る自分の顔は、ひどく青ざめていた。
(大丈夫、蓮さんは私のことを思って言ってくれてるんだ。私がしっかりしていないから……)
冷たい水で手を洗い、必死に自分に言い聞かせる。
妹の柚葉のためにも、波風を立ててはいけない。
そう思い込み、澪は深呼吸をして席へと戻った。
――しかし、澪は知らなかった。
彼女が席を外している間。
完璧な微笑みを崩した蓮が、残された澪のバッグを無遠慮に漁っていたことを。
「……ん?」
蓮の指が、バッグの底に隠されるように丸められていた一枚の紙切れを摘み上げた。
それは、大衆向け底辺居酒屋『酔いどれ横丁』の給与明細と、今月のシフト表だった。
「……ふふっ」
高級イタリアンの個室に、場違いな、低く歪んだ笑い声が響いた。
「なるほど。こんな底辺の掃き溜めで、安売りしてるのか」
泥にまみれた石を見つけたような、酷薄で、どこか愉悦に満ちた表情。
蓮はスマートフォンを取り出し、シフト表を写真に収めると、紙切れを元の場所に雑に放り投げた。
「俺の所有物は、隅から隅まで綺麗に管理してあげないとな」
戻ってきた澪を迎えたのは、これまでで一番優しく、そして底知れぬ狂気を孕んだ「完璧な彼氏」の笑顔だった。




