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波の音

職員室を出たあと

廊下の光が 少しだけ白く感じた

教室の前まで来て 足が止まる

中から 笑い声が聞こえた

誰かが 誰かの話で笑っている

いつもの 日常の音


扉に手をかける

掛ければ 同じ場所に戻れる

戻れるはずなのに


手が動かなかった


「……いいや」

小さく呟く 手を離す


そのまま あゆみは学校を出た


誰にも気づかれないように

ゆっくりと


次の日は 

行かなかった

その次の日も


朝になると 一度は起きる

制服にも手を伸ばす

でも そこで止まる


「……行って どうするん」


答えがでないまま

布団に潜る


日が昇って

昼になって

夕方になる


時間だけが 進む


窓の外では いつも通り海が光っている

それが 少しだけ腹正しかった


母は 何も言わなかった

「起きなさい」ともいわないし

「学校は」とも言わない

ただ 昼になると

そっと 食事を置いていく


父も 何も言わない

夜 帰ってきて

あゆみの部屋の前で一度だけ足を止める

でも 声はかけない


それが逆にきつかった


「……なんで 何も言わんの」

布団の中で 小さく言う


でも 本当はわかっていた

言われたら もっとしんどい


三日目の午後

玄関の戸が 少しだけ強く開く音がした


「おるんやろ」

聞きなれた声


足音が 遠慮なく近づいてくる


「入るで」


ふすまが 開いた


そこにいたのは 徹子と渚だった


あゆみは 布団の中から 顔だけ出す


「……なんできたん」


徹子があきれたように言う


「来るやろ 普通」


渚は 何も言わずに部屋を見回す

少し散らかった机

あきっぱなしの鞄


「学校来てへんやろ」

徹子が言う


「……うん」

それ以上 言葉が続かない


暫く 沈黙


「で」

徹子が 腕を組んで言う

「いつまでそうしとるん」


少しだけ 強い言い方だった


あゆみは顔を伏せる

「……わからん」


「やろな」

徹子はあっさり言う


そのやり取りに 少しだけ空気が緩む


渚が 窓の外を見ながら口を開いた

「海 ええ感じやで 今日」


あゆみは 何も答えない


「風もそんなに強ないし」

「漕ぎやすい日や」


その言葉に 胸が少しだけ痛む


「……うち もう無理や」

思わず 口から出た


部屋の空気が 少し止まる


「無理って?」

徹子が聞く


「だって」

言葉が詰まる


「……全部 あかんかったし」

やっと出た言葉は それだけだった


しばらく 誰も何も言わなかった


渚が ゆっくりと振り返る


「全部って」


「大学 アカンかっただけやろ」

その言い方は 静かだった

でも 逃げ道を残さない言い方だった


あゆみは 何も言えない


徹子が 溜息をつく

「ほんま そういうとこやで」


「一回アカンかったら 

全部終わりみたいにする」


あゆみは 布団を握る


「……終わりやろ」

声が 震える


「うちより上 いっぱいおったし」

「選手無理って言われたし」

「もう ええやろ」

その言葉は 投げるみたいだった


少しの沈黙


渚が ぽつりと言う


「じゃあ やめたらええやん」


あゆみは 顔を上げる


「カヌーも」

「全部」


部屋の空気が 少しだけ変わる

徹子が ちらっと渚を見る


渚は続ける


「やめるんやったら やめたらええ」

「でも」


一歩 あゆみに近づく


「それ 自分で決めてからにせえや」


その言葉は 強くなかった

でも 逃げられなかった

 

あゆみの目に少しだけ涙が浮かぶ


「……わからん」

本音だった


徹子が 少しだけ柔らかい声で言う


「そら 今はわからんやろ」


「落ち込んどる時に決めても

ろくなことならんし」


畳の上に座り込む


「取敢えず」


「外 でよ」


あゆみは 首を振る


「……無理」


渚が 少しだけ笑う


「港まででええ」


「別に漕がんでええし」


「見るだけでええ」


その言葉に 少しだけ迷いが生まれる


窓の外の光

海の色


あゆみは 布団の中で目を閉じる


暫くして


「……ちょっとだけやで」


小さく そう言った


徹子が 軽く笑う


「それでええ」


渚は 何も言わなかった

でも 少しだけ安心した顔をしていた



陽は間もなく沈もうとしていた

ゆっくりと流れる雲

水面が 柔らかく揺れている

徹子は少しだけ笑う


あゆみは 何も言わずに 海を見る

ここはズット見てきた場所のはずなのに

どこか遠く感じた


渚は もう舟の準備をしていた

小さなエンジンのついた舟

普段から使っている 見慣れたもの


「乗るで」

それだけ言う


徹子が先に乗り込む

あゆみは 一瞬だけためらってから

足をかけた


舟が岸を離れる

ロープが外され

静かに ゆっくりと滑り出す


エンジンの低い音

一定のリズムで響いていた

港を離れて 

ほんの少し沖に出ただけなのに

陸の気配が 急に消えていく

波は穏やかで

小舟はゆっくりと上下に揺れていた

風が 少しだけ 強くなる

髪が揺れる


渚は舵を握りながら 振り返らない

誰も 直ぐには話さなかった


あゆみは 舟の縁に手をかけたまま

何も言わず海を見ていた

水面は夕方の光を受けて

細かく砕けている


「このへんで ええか」


エンジンが止まる

急に 世界は静かになる


残るのは波の音だけだった


ちゃぷん ちゃぷん と

船底を叩くやわらかい音


少しの風が 髪を揺らす


「揺れるやろ」

渚が言う


「……うん」

あゆみは小さく答えた

暫く 言葉が続かない

ただ揺れている


同じ場所にいるのに 

止まっていない感じがする


流されているわけでも無いのに

何処かへ運ばれていくような

不思議な感覚


「落ちるなよ」

「落ちへんよ」

少しだけ 声に力が戻る

渚は それ以上何も言わない


沈黙が続く


けれど それは重たい沈黙ではなかった

ただ ここにいると言うだけの時間だった


あゆみは ふと呟いた


「……私さ」

言葉が途中で止まる

喉の奥で 何かがつかえている


「……全部 無理やった」

しぼり出すような声だった


海は 何も答えない

ただ 同じ音で波を返す


「頑張ったんやけどな……」

視線はずっと 水面のまま


「分かっとる」

渚が 短く言う

それだけだった


慰めでも 励ましでもない

評価でもない

ただ 事実みたいにおかれる言葉


あゆみの肩が少し震える

「……でもさ」

あゆみは続ける


「なんか あそこ行ったら……

自分だけ 全然違うとこにおる気がして」


「面接会場の空気 周りの選手たちの姿」


「もう 最初から無理やったんかなって」


沈黙


波の音



遠くで カモメの声がした


渚は少しだけ空を見上げてから言った

「ほなさ」

あゆみは顔を上げない

「違うとこにおったら あかんの?」


その言葉に 

あゆみの指が少し強く船縁を掴む


「……分からん」

「うちもわからん」

渚は あっさり言う

「でもな」

少し間を置く

「海 みとったらおもうねん」


あゆみが ゆっくり顔を上げる


「ここ ずっと同じに見えるやろ」


「周囲はただの海 境目も道もない」


「でも 流れ全部ちゃうねん」


指で水面を示す


「潮も 風も 全部違う」


あゆみは 何も言わずそれを見る


「せやから 同じとこにおるようで

ほんまは ちょっとずつ動いとる」


舟が小さく揺れる


「今も」


渚が言う


「止まっとるように見えて 流れとる」


あゆみは その言葉を聞きながら

もう一度 水面を見る


「知っとるよ……流れとる」


さっきと同じはずの海

けれどさっきと同じではない気がした

光の反射も 波の形も

少しずつ変わっている


あゆみは 小さく頷いた


「……そっか」

それが納得なのか 諦めなのかは分からない


けれど

さっきまでとは 少し違う声だった


渚はエンジンに手をかける

「帰るか」

「……うん」

エンジンがかかる

再び音が戻る


小舟はゆっくりと港の方へ向きを変えた

その間 あゆみはずっと海を見ていた

同じようで 同じではない海を



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