海の駅
翌朝
あゆみは 制服に袖を通していた
鏡の前で手が止まる
けれど 昨日ほど長く迷わない
軽く息を吐く
「行ってきます」
玄関を出た
校門をくぐる
見慣れたはずの景色が 少しだけ遠く感じる
けれど 足は止まらなかった
そのまま職員室へ向かう
ノック
「失礼します」
顔を上げた 担任の先生が穏やかに頷く
「おう 来たか」
「……はい」
短いやり取りのあと
席に案内された
少し沈黙
あゆみは言葉を探す
「ちょっと 聞きたいことがあります」
「前に……
海の仕事あるって言ってましたよね」
先生が軽く頷く
「ああ」
「その求人……まだ 残ってますか?」
先生は立ち上がり 棚のファイルを探す
紙をめくる
「あー……これやな」
一枚を取り出し 戻って来る
「残っとるで」
差し出された紙を あゆみは受け取る
視線を落とす
そこに書かれている文字をみてーー
あゆみの指が わずかに止まる
「……海の駅」
小さく 呟く
見覚えのある名前だった
夏
照りつける日差し
観光客の声
慣れないレジ操作に戸惑ったこと
船の時間を何度も確認したこと
忙しさの合間に見た あの海
全部 覚えている
「行ったことあるんか?」
先生の声に あゆみは頷く
「……夏休みに バイトで」
「ほう そうか」
先生は少しだけ感心したように言う
あゆみは もう一度求人票を見る
業務内容は ほとんど変わっていない
観光案内 物産販売 発着対応
知っている仕事
出来るかどうかも 少しは分かる
でもーー
前とは違う
通り過ぎた場所じゃない
戻る場所として そこにある
昨日の海が 頭に浮かぶ
揺れる舟
静かな波の音
止まっとるように見えて 流れとる
あゆみは ゆっくり息を吸った
「……ここ」
紙を軽く持ち上げる
「もう一回 ちゃんと考えたいです」
先生は頷く
「ええと思うで」
「連絡取れますか」
「取れる 担当もわかっとるしな」
「お願いします」
あゆみは頭を下げた
手の中の紙は 前と同じはずなのに
重さが違う気がした
あの夏は ただの経験だった
でも今は
選ぶ場所になっている
あゆみは そっと紙を握り直した
潮の匂いが 少し強い
港に立った瞬間 あゆみはそう思った
見慣れた建物
見慣れた看板
けれど 前に来た時とは少し違う
あの時は バイトに来た場所
今日は 働く場所として来ている
足が 少しだけ重い
それでも 歩く
自動ドアが開く
中に入ると 懐かしい空気が広がった
物産コーナー
カウンター
奥の事務スペース
「あれ……」
聞き覚えのある声
振り向くと
以前お世話になった職員の女性が立っていた
「……あゆみちゃん?」
「お久しぶりです」
軽く頭を下げる
「え どうしたん?」
驚きと 少しの笑顔
「今日は……面接で」
一瞬 魔が空く
そのあと 相手の表情が柔らかくなる
「ああ そう言う事か」
納得したように頷く
「ちょっと待ってな 今呼んでくる」
「長門さん 長門さん」
案内されたのは 奥の小さな事務室だった
椅子に座る
手のひらに 少し汗がにじむ
外から聴こえるのは 観光客の声と
船のエンジン音
あの夏と同じ音
でも 今日は違う
ドアが開く
中に入ってきたのは 年配の男性だった
「今日はよう来てくれたな」
穏やかな声
「よろしくお願いします」
あゆみは しっかり頭を下げる
「一回
ここに来たことあるって聞いとるで」
「はい夏休みにアルバイトで」
「どうやった」
あゆみは少し考える
「……最初は 全然できませんでした」
正直に言う
「でも すこしずつ覚えていって」
言葉を選びながら続ける
「最後は 仕事が回る感じが……
ちょっとわかってきました」
男性は頷く
「しんどかったか?」
「はい」
即答だった
そのあと 少しだけ言葉を足す
「でも……嫌じゃなかったです」
「なんで ここに来ようと思ったんや」
核心の問い
あゆみは 少しだけ視線を落とす
頭の中に あの海が浮かぶ
揺れる船
静かな波
「……海に関わりたくて」
ゆっくり顔を上げる
「選手としては もう無理でした」
はっきり言う
けれど 声は落ちていない
「でも 離れたくはなくて」
少しの沈黙
男性は あゆみをじっと見る
「ここはな」
ゆっくりと口を開く
「競技の海とは ちゃうで」
「……はい」
「地味やし 同じことの繰り返しも多い」
あゆみは頷く
それは もう知っている
「それでもええか?」
一番大事な確認
あゆみは 少しだけ考えてから答える
「……はい」
短く でも確実に
男性は 小さく笑った
「ほな 一回やってみるか」
あゆみの目が 少しだけ見開く
「正式な話は後で詰めるけどな」
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる
事務室を出ると さっきの職員が待っていた
「どうやった?」
「……採用 前向きにって」
「よかったやん!」
明るい声
あゆみは 少しだけ笑った
ほんの少しだけ
外に出ると 港に小舟が見えた
見慣れた舟
見慣れた姿
「終わったんか」
渚が手を振る
放課後の時間になってた
「……うん」
あゆみは近づく
「どうやった」
「……多分 大丈夫」
渚はそれを聞いて 軽く頷く
「そっか」
少し沈黙
あゆみは 海の駅の建物を振り返る
「ここで 働くかもしれん」
渚も その方向を見る
「ええやん」
あっさり言う
あゆみは 少し驚いたように見る
「……ええの?」
「何が?」
「だって……」
言いかけて 少し迷う
「商売……かぶるやん」
渚は 少し笑う
「ああ それな」
船の縁に腰をかけながら言う
「正直いうたら ちょっとはあるで」
「やっぱり」
「でもな」
渚は海の方を見る
「人来ん寄り 来た方がええやろ」
あゆみは黙って聞く
「海の駅も うちも」
「……うん」
「どっちかだけじゃ 長続きせん」
波が 小さく揺れる
「人が来て 回って」
「また来たいおもうてくれて」
「それでやっと 続く」
渚の声は いつもより落ち着いていている
「せやから」
少しだけ あゆみの方を見る
「一緒に盛り上げたらええやん」
あゆみは その言葉を聞いて
少しだけ 笑う
今度は さっきより自然に
「……うん」
海は 変わらずそこにある
けれどーー
あゆみのたつ場所は 少しだけ変わっていた
学校に戻り
職員室で担任の先生に報告する
一言 先生も笑った
あゆみは教室に戻る
まだ少しだけ人が残っていた
「……戻ってきたな」
後ろから声がする
振り向くと 徹子が立っている
「うん」
短く答える
「どうやった」
「……決まりそう」
あゆみは言う
「海の駅」
徹子は少しだけ目を細める
「そうか」
それ以上は聞かない
けれど 理解はしている顔だった
「そっちは?」
あゆみが聞く
徹子は少しだけ間をおく
「私も 決まった」
「え?」
あゆみが顔を上げる
「鉄道会社」
静かな声
「……鉄道?」
「うん」
あゆみは少し驚いた顔になる
「そんな話 してたっけ」
「してたよ 忘れてたんちゃうの」
徹子はあっさり言う
椅子を引いて 向かい合う
「動かす側に回りたいねん」
「動かす側?」
「人の流れとか 時間とか」
言葉を選びながら話す
「そういうの ちゃんと回す仕事」
あゆみは 少し考える
徹子らしい と思った
「勤務地は?」
「まだ分からん」
徹子は首を軽く振る
「本社なら大阪」
「支社配属なら広島」
「ああ……」
あゆみは 少しだけ息を吐く
「出るんやな」
「多分な」
少しの沈黙
教室の窓から 部活の声が聞こえる
「怖くない?」
あゆみが聞く
徹子は少しだけ考える
「怖いで」
即答だった
「知らん場所やし」
「知り合いもおらんし」
「仕事も 多分きつい」
淡々と並べる
「でも」
少しだけ 視線を上げる
「それでも行く」
あゆみは その言葉を聞いて
ゆっくり頷く
「……そっか」
「そっちは残る」
徹子は言う
「うん」
「海の駅」
「うん」
徹子は息を吐く
「ええやん」
その言葉は 軽くはなかった
「向いとると思うで」
あゆみは 少し驚いた顔をする
「そうかな」
「少なくとも」
徹子は言う
「逃げてる感じはせん」
あゆみの表情が 少しだけ揺れる
その言葉は まっすぐだった
「……そっちは?」
あゆみが聞き返す
「逃げてへん?」
少しだけ 意地悪な聞き方
徹子は 一瞬だけ黙る
そして
「逃げとるかもしれん」
と 言った
「え?」
あゆみが驚く
「ここにおったら」
教室を見渡す
「多分 楽やからな」
「知っとる人ばっかりで」
「やることも 何となくわかる」
「それ選ばんように しただけや」
淡々とした声
あゆみは 何も言えなくなる
「どっちが正解とは分からん」
徹子が言う
「残るんも 出るんも」
「でも」
少しだけ笑う
「どっちも ちゃんと選んだんやろ」
あゆみも 少しだけ笑う
「……うん」
窓の外
海は いつも通りそこにある
変わらない景色
けれど
二人の行き先は もう同じではない
それでも
同じ時間を過ごしたことは 消えない
放課後の教室に 静かに風が通り抜けた
「私は何処の駅に行くんかな……」




