推薦
放課後 あゆみは職員室に呼ばれた
扉を開けると いつものざわめきがあった
先生たちの声 紙の音 電話の音
「水谷 こっち」
担任が手を上げる
机の横に行く
「ちょっとええか」
そのまま 空いている席に案内される
「座って」
あゆみは椅子に腰を下ろす
先生は一枚の紙を取り出す
「これな」
机の上に置かれる
大学の名前が書かれていた
あゆみは それを少しだけ見つめる
「カヌーの推薦の話しが来とる」
あゆみは顔を上げる
「スポーツ推薦や」
言葉が直ぐには入ってこなかった
「大会の結果みて 声かかったらしい」
あゆみは 何も言えなかった
自分の中で
少し遅れて意味がつながっていく
「どうや」
先生が聞く
あゆみは少しだけ間を置く
「……そんな 上位でもないのに」
それが最初にでた言葉だった
先生は小さく笑う
「それでもや」
「上位だけが呼ばれるわけでもない」
静かな言い方だった
あゆみは もう一度紙を見る
東京の大学の名前だった
「行く気はあるか?」
その問いに 直ぐには答えられない
頭の中に いくつかの景色が浮かぶ
海の駅
渚の船
徹子の言葉
全部が同時に浮かんで まとまらなかった
「……わからんです」
やっと出たのはそれだけだった
先生はうなずく
「すぐ決めんでええ」
「でも ちゃんと考えとき」
その言葉は 重くはなかった
でも 逃げられない感じがあった
「一回 話だけでも聞いてみるか」
あゆみは少しだけ考える
「……はい」
うなずく
それが 決めたわけではないことも
分かっていた
ただ 動くことにはなった
「ほな 連絡しとくわ」
先生は紙をまとめる
話しはそれで終わった
あゆみは立ち上がる
職員室をでると 廊下は静かだった
窓の外に 海が見える
いつもと同じはずなのに
少しだけ遠く感じた
カヌーで進む道と ここに残る道
どちらも 現実になり始めていた
あゆみは その場に少しだけ立ち止まる
何を選ぶかは まだ分からない
でも 選ばなければいけないことだけは
はっきりしていた
夜 家に帰ると 台所から音がしていた
包丁の音と 火の音
いつもと同じだった
「ただいま」
「あ おかえり」
母が振り返る
「ご飯 もうちょっとでできるで」
「うん」
あゆみは鞄を置いて 椅子に座る
暫く 何も言わない
言おうとは思っていたが
上手く出てこなかった
「どうしたん」
母がふと聞く
「なんかあった?」
その言い方は 軽かった
あゆみは少しだけ考える
「……今日 先生に呼ばれて」
それまで言って 少し止まる
母は手を止めずに聞いている
「大学の話 来ているって」
「へえ」
母は少しだけ驚いたように言う
「何処の?」
「東京」
包丁の音が一瞬止まる
「東京か」
それだけだった
父は 奥の方で新聞を読んでいた
「カヌーで 推薦やって」
あゆみが続ける
父は新聞を少しだけ下げる
「ほう」
短い声だった
「どうするんや」
父が聞く
あゆみは 少しだけ視線を落とす
「まだ 分からん」
正直だった
母は 火を弱めながら言う
「行きたいん?」
あゆみは答えない
頭の中に いくつかの景色が浮かぶ
海の駅
渚の船
夜の海
それと 見た事のない東京の景色
どれもはっきりしない
「……分からん」
もう一度言う
母は小さく頷く
「そやろな」
それ以上は聞かない
「ご飯できたで」
いつもの声だった
皿が並ぶ
湯気が上がる
あゆみは箸を取る
食べ始める
味は いつもと同じだった
父がぽつりと言う
「行きたいなら 行ったらええ」
あゆみは顔を上げる
父はそのまま続ける
「無理に残ることもないし」
少しだけ間があく
「無理に出ることもない」
それだけだった
あゆみはその言葉をきいていた
軽くもない 重くもない
ただ そこに置かれた感じだった
「自分で決めたらええ」
父は新聞に目を戻す
会話はそれで終わった
食事が続く
特に変わったことはない
それでも さっきとは少し違う気がした
あゆみは 箸を動かしながら考える
決めるのは じぶんだということだけが
はっきりしていた
放課後 校舎の外に出ると
徹子が先にベンチに座っていた
「おそ」
軽く言われる
「ちょっと先生に呼ばれてて」
「またか」
とくに気にした様子もない
あゆみは隣に座る
少しだけ間があく
「……大学の話 来てる」
あゆみが言う
「へえ」
徹子はそれだけ返す
「東京」
その一言で 少しだけ表情が変わる
「ええやん」
即答だった
あゆみは少しだけ黙る
「カヌーで推薦やって」
「なおさらええやん」
迷いがない
あゆみは視線を落とす
「……でも」
言葉が続かない
徹子はそれを待たない
「迷う意味ある?」
軽く言う
「行けるなら 行ったらええやん」
その言い方は あっさりしていた
「うちなんか 自分で探して行くんやで」
少し笑う
「用意されとるんやったら ラッキーやん」
あゆみは その言葉をきいていた
正しい気もした
でも それだけではない気もした
「あゆみ 海好きやろ」
徹子が言う
「好きなこと 続けれるんやろ?」
あゆみは少しだけ頷く
「……うん」
「ほな ええやん」
それで話は終わるような言い方だった
風が少し吹く
「まあ 最終は自分やけどな」
徹子は立ち上がる
「でも 行かん理由の方がないやろ」
そう言って 歩き出す
あゆみはその背中をみていた
迷いがないように見えた
その分
自分の中の揺れがはっきりした気がした
夕方 港の近くで渚を見つけた
船のロープを結び直しているところだった
「あ 来たんや」
顔を上げて言う
「ちょっとええ?」
「ええで」
手を動かしたまま答える
あゆみは少しだけ近づく
潮の匂いがする
「……大学の話 来てる」
あゆみが言う
渚の手が 少しだけ止まる
「どこ?」
「東京」
短い沈黙があった
「……すごいやん」
それが最初の言葉だった
驚きというより 受け止めた感じだった
「カヌーで推薦やって」
「ええやん」
でも その言い方は徹子とは少し違った
軽くなかった
渚はロープを結び終える
もう一度引いて 確かめる
「行くん?」
振り返らずに聞く
「……分からん」
あゆみが答える
渚は少しだけ頷く
「そやろな」
それだけだった
海の音が ゆっくり続いている
「あゆみが決めたらええと思うで」
渚が言う
「うちは ここでやるけど」
少しだけ 間があく
「別に あゆみも
そうせえとは思ってへんし」
あゆみはその言葉を聞いていた
前にも聞いた気がする
でも 今は少し違って聞こえた
「ただ」
渚が続ける
「どっちでも楽ではないと思うで」
それだけだった
説明はない
でも 重さはあった
あゆみは海を見る
静かに広がっている
何処にも答えはなかった
それでも 逃げられない気がした
渚は もう次の作業に入っていた
あゆみは その横に立ったまま
暫く 動けなかった




