卒業
朝の空気は 少しだけ柔らいでいた
冬の終わり
けれど まだ寒さは残っている
あゆみは いつもより少し早く家をでた
理由はとくにない
ただ そうしたかった
校門をくぐる
見慣れたはずの景色 少しだけ違って見える
校舎は静かだった
三年の登校日は もうほとんど残っていない
教室の扉を開ける
「……おはよ」
先にきていたのは 徹子だった
「おはよ」
あゆみは 席に荷物を置く
いつもの場所
もうすぐ ここに座る事も無くなる
教室の中は まばらだった
数人が来ているだけ
話し声も 小さい
「今日で終わりやね」
徹子が言う
「うん」
あゆみは答える
それだけの会話
窓の外を見る
グラウンドは空いている
部活の声も 今日は聞こえない
時間がゆっくり流れる
「そっちどうなん」
徹子が聞く
「仕事?」
「うん」
「……慣れてきた」
少しだけ考えてから答える
「まだ ミスるけど」
「そらするやろ」
徹子はあっさり言う
「うちも最初 滅茶苦茶やったしな」
少しだけ笑う
「でも まあ」
続ける
「回るようになる」
あゆみは その言葉を聞いて
小さく頷く
「……そっちは」
「準備中」
短い答え
「引っ越しとか」
「それもある」
少し間を置く
「何か 実感ないけどな」
あゆみはその言葉を少しだけ笑う
「分かる」
チャイムが鳴る
先生が入って来る
出席を取る
連絡事項を話す
それだけだった
特別なことは なにもない
それでも
この時間が
もうすぐ終わる事だけは分かる
配られたプリントを 何となく見る
卒業式の案内
あゆみは それを軽く折って机に置く
ふと 教室を見渡す
空いてる席
笑ってる人
ぼんやりしてる人
全部 同じ場所にいるのに
もう少しで 全部バラバラになる
授業はなかった
ホームルームだけで終わる
「ほな 解散や」
先生は言う
あっけない
椅子が引かれる音
荷物を持つ音
ドアが開く音
日常が そのまま終わっていく
「帰るか」
徹子が言う
「うん」
二人で廊下を出る
階段を降りる
ゆっくり
玄関で靴を履き替える
外に出る
空は 少しだけ明るい
風は まだ冷たい
「……来なくなるな」
あゆみが言う
「せやな」
徹子は 少しだけ校舎を見る
「まあ 終わりやな」
それだけだった
あゆみも振り返る
何度も見た景色
でも もうすぐ終わる
「ほな」
徹子が言う
「またな」
「うん」
今度はどちらも止まらない
其々の方向へ歩き出す
振り返らない
ただ進む
その足取りは
少しだけ 前よりも迷いがなかった
校舎を出た後 あゆみは少しだけ足をとめた
そのまま帰ることも出来た
けれど ふと視線が海の方を向く
カヌー部の艇庫
「……ちょっとだけ」
誰に言うでもなく 呟く
足が そちらへ向かう
水辺は 静かだった
風は冷たいが 水面は穏やかに揺れている
艇庫の前には 見慣れた艇が並んでいた
数人の後輩が 準備をしている
「あ 先輩」
一人が気づく
「久しぶりです」
「……うん」
あゆみは 少しだけ笑う
「もう終わりですか 学校」
「今日で ほぼな」
短い会話
「ちょうど出るとこなんです」
後輩が言う
艇を水に下す
静かに滑り出す
パドルが 水を切る音
あゆみは その様子を見ている
同じ景色
何度も見た光景
けれど 少しだけ遠くに感じる
「……乗りますか?」
別の後輩が言う
あゆみは少しだけ考える
「今日はええ」
小さく首を振る
「見るだけ」
後輩たちは頷く
水の上で 艇が進む
一定のリズムで 前へ
その動きは 変わらない
ふと 一人の後輩が岸に戻って来て
「先輩」
あゆみは顔を上げる
「……続けてください」
まっすぐな言葉だった
「カヌー」
少しだけ間
「先輩 速かったですし」
あゆみは 一瞬だけ言葉を失う
風の音
水の音
頭の中に いろいろな場面が浮かぶ
練習
大会
あの面接
そして海
あゆみは ゆっくり息を吐いた
「……どうやろな」
少しだけ笑う
「でも」
水面を見る
嫌いになったわけちゃうからな」
それだけだった
後輩は 少し安心したように頷く
「また来てください」
「うん」
短く答える
艇が また沖へ出る
水を切る音が 一定に続く
あゆみは それを見ている
同じようで
同じではない
もう あの中にはも戻らない
でも
完全に離れたわけでもない
あゆみは ゆっくりと歩き出す
その足取りは
迷いではなく
選んだ後のものだった
卒業式の日
体育館の空気は 少しだけ張りつめていた
整然と並んだ椅子
壇上の校旗
静かなざわめき
名前が呼ばれる
「大浦 渚」
返事をして 立つ 前に進む
証書を受け取る
手に重みが伝わる
席に戻る
「鹿島 徹子」
返事をして 立つ 前に進む
続く
みんな 歩き 受け取る
特別なことは無い
暫くして
「水谷 あゆみ」
続く
此れで終わりだと 分かる
式が終わる
拍手
立ち上がる音
外に出ると 空は明るかった
少しだけ暖かい
「終わったな」
徹子が言う
「うん」
あゆみは答える
それだけだった
校門の前
人が集まり 写真を撮り 笑っている
その中で 三人が並ぶ
「ほな」
徹子が言う
「行くわ」
短い言葉
「……うん」
あゆみは頷く
渚も 軽く手を上げる
「またな」
徹子は振り返らない
そのまま歩き出す
その背中は もう迷っていなかった
やがて 人の中に消える
波の音が 遠くから聴こえる気がした
出発の汽笛が鳴る
船は動き出す
島がゆっくり遠ざかる
スーツケースが一つ
徹子は 一度だけ目を細めた
それだけで十分だった
知らない場所へ行く
知らない仕事をする
それでも足は止まらない
景色は ゆっくりと流れ始める
徹子は何も言わない
ただ 前を見ていた
春の海は 少しだけ明るい
小舟が 波に合わせて揺れる
水面は穏やかで 光が揺れている
客の声
風の音
どれも いつも通り
けれど 同じ日は一つもない
客を乗せる日もあれば
一人で出る日もある
やることは変わらない
けれど 季節は変わる
渚は何も言わず舵を握る
流れは 今日も 続いている
海の駅の朝
「おはようございます」
声は出たが 少しだけ硬い
カウンターに立つ
手は動く
注文を受ける
料理を運ぶ
会計をする
回っている
昨日より 少しだけ
外から声がする
「体験の方 こちらです」
あゆみは 外に出る
並べられたカヌー
波は穏やかだ
客が 少し不安そうに立っている
「初めてですか?」
「はい」
あゆみは少しだけ間を置く
「……大丈夫です」
言いながら 自分でも少しだけ迷う
本当に大丈夫か
パドルを手に取る
「ここ こう持って」
動きを見せる
少しだけ ぎこちない
客が同じ様に持つ
少し違う
「あ 違います」
言ってから 手を添える
その瞬間
水の感触を 思い出す
押す 引く
進む
あの頃と 同じ
でも 違う
カヌーを水に出す
ゆっくりと 浮かぶ
波が少しだけ揺れる
客が不安そうに笑う
あゆみも つられて少し笑う
「ゆっくりでいいですよ」
本当にそう思った
カヌーが少しだけ進む
真っ直ぐではない
少し揺れる
でも止まらない
あゆみは それを見ている
これでいいのか
水面に 細い奇跡が残る
直ぐに消えて また揺れる
はっきりした答えではない
でも 前よりは分かる
波は今日も同じ様に見える
けれど
よく見ると 少しずつ違う
流れも 揺れも
その中で 進んでいくしかない
あゆみは もう一度声を出す
「そのままで大丈夫です」
少しだけ 自然にでた
カヌーがまた少し進む
まっすぐではない
でも 進んでいる
潮の流れの中で
波の揺れの中で
その中に立っている
あゆみはにゅっくりと顔を上げる
海は静かだった
けれど 確かに動いている
もう一歩 踏み出す
まだまだ続きます




