第九十五話 『悪夢』 ( a nightmare)
何もない白い空間。ただひたすらに白い。何処までも何処までも。
此処は何処で、わたしは何をしていたのか?
何も思い出せない。
この何もない白くてただっ広い空間が不思議に気持ちを落ち着ける。
此処は何処なのか? すごく馴染みがある場所だという実感があるけど、何一つ思い出せるものがない。
何者にも邪魔されない自分だけの空間だ。そういう実感だけが身体の中に在る。そう、まるでこの世界が自分自身そのものの様に。
「これがあんたの夢ぇ?」
耳障りな声が聞こえる。雑音の様な音。やたらと感に触る。それはその声が明らかに、わたしに悪意を向けているからだろう。その声は、何処から聞こえたのだろう? 周りを見渡しても何もない白い空間とハルバードが在るだけだ。
でもどうしてわたしのハルバードがこんなところに突き立てられているのだろう?
柄の部分を下にして地面に突き立てられている。壁も何も無いので、白い大地に突き刺さっている状態だ。
ハルバードに近付いて手に取る。
地面から、ずぼっと引き抜くと意外に軽々と抜けた。しっかりと直立していたので、がっちりと突き刺さっているものと思い込んでいたが、そうではなく、ただ立っていたという感じだった。
何の気無しにハルバードを振り回して遊ぶ。そういえば、最近はあまりちゃんとトレーニングをしていなかったのを思い出す。元々面倒くさがりなわたしなので、当然の結果といえばそうなのだが、実家から離れて寮住まい、ルームメイトは居るものの、口うるさくいろいろ云われる事はない。むしろハルバードを寮の近辺で振り回される方が迷惑な話だ。なので、必然、ハルバードを振る機会は減っていた。
「あんまり振り回さないでくれる? 目が回るじゃないの」
その声は、手にしたハルバードから聴こえてきた。そしてこの声。アイツの声だ。なんでアイツの声が、そこから聴こえてくるの?
戦慄に顔が青ざめるのが自分でわかる。嫌な予感を感じてハルバードを見詰めながら、身体が硬直した。
「あんた、なんのつもり? なんのつもりで、わたしのハルちゃんに? ハルちゃんに何をした!?」
恐怖心を振り払うように、声を荒らげる。それでも、わたしの恐怖心は、アイツに伝わってしまっているに違いない。そういうところは抜け目なさそうなタイプだ。アイツは。そう感じて舌打ちした。
「何にもしてないわよぅ。ちょっとあんたの夢の中に入りたかったから、ここに移動してただけぇぇ。あんた全く気付いて無くて受けるぅ。それにしても酷い夢ねぇ。あんたの心ん中、こんななのぉ? かわぁいそー。何も無いのね」
ガンッ
怒りに任せてハルバードを叩きつける。跳ね上がったそれは、らまるで意図的にわたしの首元を狙う様に回転し、鋭利な刃先が鋭く迫って来た。
身を反らしてその刃先を辛うじて躱す。遅れた髪が一部千切れ飛ぶ。
後ずさって距離をとる。ハルバードは転がったまま動かない。
「また死んだふり? それあんたの特技か何か? もう見飽きたけど」
挑発して様子を視る。また何処かに移動したのかと、周囲を見渡すが、何も無い。ただただ真っ白い空間があるだけだった。自分の夢ながら殺風景過ぎる。
しばらくハルバードを睨みつけていると、手の甲がむずむずしてきた。視ると、小さい蜘蛛が無数に這っていた。
「うわっ!!」
全身鳥肌もののそれを手を振って振り落とそうとしたけど振り落とせない。手が痺れと共に崩れていくのを唖然と視ていた。眼にしている光景を頭が理解できない。両手の平が無くなり、続いて、手首から肘にかけて崩れて始めた。
あまりの事に、声を失う。そして、足元からも、もぞもぞと何かが這い上がって来る様な感触があり、そして脚が徐々に崩れていく。そして崩れた脚が次々と、転がっているハルバードの方へと吸い込まれて行くのが視えた。
わたし吸われてる?!
もぞもぞした感覚が全身に渡り、自分自身が吸い込まれて行くのを感じた。逃げようとしても、何も掴まるものもない。それ以前に、摑む手が既に無い。藻掻こうとするも、藻掻く身体も既に無かった。それでも藻掻く以外何も出来なかった。
身体そのものが無くなっているにも関わらず、周りの状況は何故か視えていた。眼が無いのに視えている。わたしの視界はハルバードの方へと引き摺られて行く。
さっきまで、わたしが立っていた辺りに小さい蜘蛛がわらわらと集まって行く。よく視ると蜘蛛だと思っていたものは、小さい粒状の塊だった。あれはなんなんだろう。
粒状の塊が徐々に何かを形成し始めた。それは、人の脚だった。地面に立っている状態で、太腿から上がまだ出来上がっていない。粒がどんどん集まって、上の部分を少しずつ創り上げて行く。
しっかし太い脚だなぁ。女の脚、それも生脚だ。筋肉隆々だけど脂肪で女性っぽく仕上がっている。そう、まるでわたしの脚みたいに……
やがて全身が出来あがり、そこに立っていたのは、わたしだった。いや、わたしの姿をした何かだった。こいつ、やっぱり入れ替わりやがった? その顔が不気味に歪んだ。ああ、わたしの顔でもあんなに醜くなるんだぁ。やだなぁ。そんな酷い顔させないでよ。
「どう? ハルバードになった気分は? あんたには、お似合いよぅ。あは、あはははは」
わたしの顔したあいつが近寄ってくる。わたしのすぐ目の前に顔をぬっと近付けてくる。避けようにも、わたしの身体はぴくりとも動かす事が出来ない。
「あんたの身体は、わたしがだいぃじぃぃぃに使ってあげる。手始めに、お爺様をあんたの身体で片付けてあげるわぁ。ふふふふふ」
爺様を片付ける? 片付けるって殺すってこと? こいつ爺様の手下じゃなかったの? どういうこと? え? わかんない。
「じゃあぁ、ねぇぇぇ」
後ろを向いて立ち去っていくアイツ。ちょっと待てえぇ。おい、このままわたしを放置する気?
声を出そうとしても声にならない。
やばいやばい。わたしこのままずっとハルバードで生きて行くの? 意味わかんない。ええええ。どうしよう。どうしたらいいの? ええええい。ポチは何してんのよ! 助けに来いよ! 役立たず! 来て! お願い!
「あら、しばらく見ない間に、随分とシャープなお姿になられましたのね。ハルバードがお好きの様でしたけど、自分をハルバードにしちゃうぐらい好きだったとは変態ですね。貴方。」
声のする方を視ると、とんがり帽子のシルエットがうっすらと霞んで視えた。