第八十七話:a cat
「『屍魔』っていったいなんなんですか?」
ニーナの胸で震えながら美雨は呟く。
「あの感覚は混濁です。多くの人が1つに固められた様なそんな存在に感じましたです。あり得ないです。あんなの……。狂気そのものです」
ニーナは美雨に強くその腕を掴まれて、顔をしかめたが、何も云わずそのまま彼女にされるがままに任せていた。
「その中でも、マルニィさんの意識が一番強く出ていましたです。貴方を想う気持ちに溢れていましたです。心配で、愛おしい気持ちが溢れていましたです。でも、あれは、あれはっ――」
ニーナは美雨の頭を優しく撫でながら、「もういいですよ。」と何度も何度も声をかけていた。
美雨の気持ちが落ち着くまでしばらく待った後、彼女を座らせて疑問に応える。
とはいえ、何処まで話したものか。
「美雨の事を警戒したり、疑ったりする訳じゃなくて、その、知っちゃうと色々と君の身辺にも影響がでちゃうかもって話なので、うーん」
それとなく、状況を匂わせる様に伝える。まずこれを先に云っておかないと、ニーナの事だ、後先考えずに色々とやばい話をしそうだと思ったのだ。この辺りは、ニーナの怖いところである。なので、ニーナにもそれとなく解るように、余計な事は云わないように釘を刺した。
「わたしから聞くだけ聞いて、話さないつもりなんですか? それは酷いです」
美雨は、その可愛らしい頬をぷくっと膨らませて拗ねてみせた。
さすがにわざとらしいというか、いや、わざとなんだろうな。
なんだかそんな気がした。
「こっちの話聞いてたか? 今までの日常送れないかも知れないんだぞ?」
直接的には何も受けた覚えは無いが、それでも学校側からの何らかの監視は受けているだろう事は予想される。そんな生活にこの子をいたずらに巻き込む訳には、やっぱりいかないと思うのだ。
「もう、今日、あの中庭での出来事に遭遇した時点で、日常じゃなくなりましたです。」
「いやいや、今引き返せば、今より後は日常だろう。それでいいじゃないか。」
また先程と同じく、背中あわせて座っていた状態から、彼女は身を捻り、膝立ちになって、此方の背中に覆いかぶさった。
「ちょっと、何?」
突然の事に、驚きと動揺が走る。赤面しながら美雨を方に顔を向けると、彼女は真剣な眼で熱弁を振るった。
「あんな事に遭遇したんです。 あんな存在を知ったんです。この世界とは別にある世界を知ったんです。そして、その世界の住民に出会ったんです。そんな事、そんな事、そんな事、全部忘れて、無かった事だと思ってこの先生きて行くなんて出来ませんです。教えて下さいです。この世界で何が起こっているのか、もちろん知らない事だらけです。でも、目の前で、わたしの目の前で、今そこで起きた出来事なんです。それを、それを、知らないまま、いえ、一部だけ知って、それも、到底信じられない様な世界を知ってなお、知らなかった事にするとか、無かった事にするとか、無理です。気になります。もちろん、わたしに何か出来ようはずはありませんです。でも、知る事は出来ますです。だから、せめて知りたいんです。お願いしますです」
美雨の熱弁に頭がクラクラしながら、納得しそうになった自分を戒める。
駄目だ駄目だ。そんな事では。状況に流され過ぎだろ自分。
よしっと気を引き締めてから、何を話すべきかよく考えて、美雨を説得……
「わかったわ。あなたに全部話します」
「おぃぃぃ?! ニーナさん?!」
一番状況に流されやすい人がここに居る事を失念していた。
ニーナを止めようとしたが、ニーナのきつい視線に圧されて押し黙る。
そうだった。こいつ言い出したら絶体引かない奴だった。
「コーイチの心配は、わかってる。でも、このまま変な事を言いふらされても困るでしょう?」
まあ、一理あるけど、でもなあ。美雨が言いふらす様な人間には見えないんだが。
そう思って美雨を見ると、彼女はニヤリを笑って、「そうですよです。わたしは有ること無いこと言いふらしちゃいますです」といたずらっぽく云って退ける。
はあ、話が聞きたいだけの方便だろうけど、そう云われるともう聞かせた方が良い気がしてくる。
それに、ここで聞かせなかったとしても、この子なら、方方でいろんな情報を集めようとしかねない。むしろそっちの方が、彼女に危険が及ぶのではないか?
「わかった。美雨に話すよ」
美雨に知っている事を、自分とニーナ以外についてはその存在をぼかしながら、一連の話をした。
美雨は神妙に聞いていた。
時折、「おぉ―」とか、「うわぁ―」とか合いの手っぽく入れていたけど。
ニーナの方は黙って聞いていた。
ただ、ニーナの存在が、異世界から来た事、そして結果として自分が『屍魔』を連れて来てしまった事をニーナ自身の口から伝えた。こちらが言い難そうに、出来れば其処はうまくぼかして伝えようとしていたのを察してかもしれないが。
一通り話終えると、美雨は満足そうに頷いた。
「すみませんです。我侭を聞いていただきましてです。これで安眠できますです」
「お前の安眠の為に話した訳じゃねえ」
結局のところこの美雨とかいう子は何を考えているのか解らない。
巻き込んだ様になってしまってほんとに良かったのかどうか。
帰り支度のため立ち上がり、制服の乱れを整えながら、美雨は敷いていた風呂敷をバサバサと振って埃を払い、綺麗に畳んでポーチにしまった。
「だいぶ時間が経ってしまったな。もう19時か。美雨、寮まで送って行くよ」
連れて来ていた子猫を呼び寄せて、抱き上げた美雨に声を掛ける。
しかし美雨は首を横に振って、子猫を撫でた。
「ごめんなさいです。わたしは、ちょっとこの子とお話がありますので、お二人はお先に帰ってくださいです」
「子猫と話って、お前」
美雨の眼が一瞬鋭くなってこちらを刺した様な気がした。
怖えよ。美雨怖えよ。
「この子のお願いを聞いてやらないと駄目なんです」
「お願いって、なんだよ? 親猫探してとかかぁ?」
美雨が眼を閉じて沈黙する。その沈黙が場の空気を圧縮する。
空気の密度が高くて窒息しそうだ。
なんだよ。沈黙も怖えよ。なんだよこいつ。猫の話になると人が変わりやがる。
「あなた方も言いづらい事を話してくださいましたです。なので、わたしも、それに応えないと卑怯ですよねです」
いったい何を云い出すつもりなんだこいつは?
子猫のお願いに、言いづらい事とかって何だよ。だって、猫だよ。まあ、なんか盗んじゃったとか、返したいとかそんな事か? 壊しちゃったとか? それでも、そんな言いづらい事があるようには到底思えない。どんな事柄だか想像すら出来なかった。
ニーナも美雨が何を云い出すのかじっと心配そうに見守っていた。
ふうぅっと息を吐き、ゆっくりと眼を開いた美雨は、隠し事を打ち明ける様に、言い淀みながら云った。
「この子、その、あのですね、実は、本体を探してるんです」