第八十三話『possession』
三十分前
放課後に一緒に帰ろうと、ニーナは耕一に話しかけた。
しかし耕一から返事がない。
何か凄く難しい顔をしてぶつぶつ言っている。
背中でも叩いて自分に注意を向けさせようかと思ったが、耕一の顔があまりにも真剣だったため、ニーナは断念した。
こういう時は、そっとしておくのがきっと良いのだと、ニーナは自分に言い聞かせてそっと教室を出る。
ニーナは、そのまま帰ろうと思い、正門の方に向かった。
しかし、このまま家に帰って母のお手伝いをする気分にもなれず、その足を中庭の方へと向けた。
ここしばらく、慌ただしくいろいろな事が起きた。
屍魔の大群に追われ、マルニィを失い、多くの城兵たちが犠牲になった。
ニーナは、祖父にこの世界に送られ、死なずに済んだ。
それでもニーナは確かめずにはいられない。
彼女がそれまで居た世界が、今どうなっているのかを。
あの状況を考えると、全員もう……。
仮にそうだとしても、やはり自分の眼で確かめなければ気が済まなかった。
戻った結果、誰も居なくても、全てが無くなっていても。
確かめない限り、彼女はずっと動けないのだ。
彼女はそれを確かめることができれば、結果がどうあれ踏み出せると信じている。
歪みがまだ存在していたと分かった時、まずニーナが始めに考えたことは、そこから元の世界に戻れるのではないかということだった。
しかしその前に、歪みを通って屍魔たちがこの世界にやって来てしまった。そのことへの懺悔の気持ちはある。でもそれ以上に元の世界へ戻れる可能性に、ニーナの心は踊ってしまっていた。
歪みが閉じたと理解した時、ニーナは自分に言い聞かせた。
もうこれで希望は無いのだと。
自分は、ここで生き、ここで死んでいくのだと。
耕一が傍に居てくれる。
それなら不安は無い。
いや、無いことは無いのだけれど。
知らない世界にたった独りになった気持ちを緩ませてくれている。
プロポーズもしてくれた。
突然のことで、びっくりした。
しかし、ニーナは悪い気はしなかった。
その申し出を受けるかどうかは別にして、すごく心強かった。
耕一を通して、この世界に居ることを許されている。ニーナはそう感じた。
他の人と仲良くなれないことはないが、少なくとも今はその気持ちになれない。
きっともっと時間が経って、この世界が自分の世界なのだとちゃんと感じられる時が来たら、そんな未来もあるかも知れない。
ニーナは、気がつくと中庭に着いていた。
放課後のこの時間、人は居なかった。
いや、独り、白い猫とまるで会話しているような女子生徒だけ居た。
バリンっと、遠くでガラスの割れる音が聞こえた。
ニーナは驚いて音がした方角に眼を向けると、白い病衣を着た見知らぬ女の子がニーナの方に向かって突進して来るのが見えた。
ニーナの本能が危険を察知し、身体が自然に身構える。
「「ニあぁぁぁーナがぁ!!ちゃん」」
咆哮に混じって、ニーナを呼ぶ声が聞こえた。
『ニーナちゃん。生きてたのね! よかった!』
突進しながらの叫び。喜びに湧き上がるその音。
その声を聞いて、ニーナの思考は停止した。
もう二度と聞くことができないと思っていた音、発音、イントネーション、言葉。
それは、慣れ親しんだニーナ自身の国の言葉だった。
そして、ニーナのことをニーナの国の言葉で『ニーナちゃん』と呼ぶ者は、唯一人しか居ない。
『マルニィ……なの?』
しかし、突進してくるその女性の顔立ちは、ニーナが知るマルニィとは別人であった。
たが、その口から紡がれる言葉はマルニィそのものだった。
喉元に喰らいつこうとする彼女から逃げることを、マルニィを思うニーナの思考が、感情が邪魔をした。
がしゅぅう
身体に組み付かれ、押し倒され、喉元に噛みつかれる。
小柄な少女とは思えない強烈な力で締め上げられ、ニーナは引き剥がすことができない。
ニーナの本能が命の危険を感じた。
猛獣に喰われる獲物は、こんな気分なのだろうか。
必死に抗い、引き剥がそうとしても全く微動だにしない。
喉元が噛み切られるような感覚があり、もう終わりだと思った。
最後の抵抗にしては抵抗にすらならないが、自分を殺す相手の素性ぐらい知ってから死にたいと思った。
ニーナは自分の手を、襲ってきた病衣の少女の頭に当てて彼女の情報を探る。
耕一に禁じられていたけど、これが最後なのだからと許しを乞うた。
ニーナの掌を伝わって、病衣の少女の情報がやって来る。
だがそれはあまりにも暴力的な情報量だった。
堰き止められていた堤防の水が、決壊によって一気に濁流となって襲ってくるかのような圧倒的に迫ってくる力。その中に見える光景。それは、人々を襲って喰らい尽くす映像だった。ニーナの国の近衛兵たちが次々と食い殺されていく。まさか、これは屍魔の記憶?! ニーナは驚愕した。
そのせいか、それとももうニーナの残された時間が終わりを迎えたのか、彼女の意識が真っ白に遠のく。
「わたし、こんなところで終わってしまうの……」
死に際を間違えた結果なのだと、ニーナは思った。
それならばいっそ、あの時、元の世界で死にたかったと。
「助けてくれたマルニィには悪いけど……はっ?! そうだ! マルニィ!」
ニーナの意識が覚醒して、身体が跳ねるように起き上がった。
気が付くとニーナの身体を組み敷いていた、病衣の少女の身体は無かった。
ニーナは自分の喉元に手をやる。
噛み切られたと思った喉には、傷一つ付いてなかった。
「あれ? なんで?」
たしかに、噛み切られたと思ったし、その感触はあったのに……。
足下を見ると、耕一が病衣の少女を取り押さえていた。
「コーイチ?」
「ニーナ。気が付いたか? 大丈夫か? 噛みつかれてたみたいだけど」
耕一は押さえつけている病衣の少女の予想外の力の強さに戸惑った様子ながらも、なんとか動きを封じていた。
「あ、うん。大丈夫。怪我も無いみたい」
まだ突然の出来事に興奮してしまったためか、現実感の無いままに感情の無い返答をしてしまっていた。
「そうか良かった。でも、この子どうしようかって、余裕もないんだけど、今にも引き剥がされそうっ!!」
「あぁぁぁがぁ!!!!」
『ニーナちゃん。助けて! ここどこ? わたしどうなるの? お願い! 助けてえええ!』
ニーナの国の言葉で、マルニィのように話す病衣の少女を見た。
「コーイチ、ごめんなさい。いまだけ、本当にいまだけだから、私の能力を使わせてください」
ニーナは耕一に懇願した。
耕一は少し躊躇いがあったが……
「わかった。いいよ。なんか、特別な事情がありそうだ。ただし、何を知ったのか、後でいい。教えてくれ」
ニーナは病衣の少女に近付いて、額にその掌を当てた。
そしてニーナの掌から流れ込んで来る濁流のような情報。二度目なので、今度は心構ができていた。一つ一つ情報を丁寧に解く。これは個人の記憶や意識ではなかった。たくさんの人々のものが混ざり合って混沌としている。ただ、その中で一際光を放つ意識があった。マルニィの意識だ。
そこでニーナは理解する。この病衣の少女が死んだ人の魂を自分に宿すことができる能力を持っていることを。そして、屋上で死んだ屍魔の魂を、その屍魔に喰われた人々の魂ごと宿してしまったのだ。
しかし、それをマルニィの意識に伝えるべきかどうか、ニーナは逡巡した。
耕一に押さえ付けられながら、必死に叫び続ける病衣の少女を状態を見るに耐えかねてニーナは決断する。
マルニィの意識は本物だ。しかしそれはきっと、今だけの奇跡なのだから。
病衣の少女の耳元で囁く。
『マルニィ。ごめんなさい。私はあなたを助けられない……』
気持ちを抑えようとしていたけれど、身体が言う事を聞かなかった。ニーナの意志を越えて、涙が溢れ、嗚咽し、その場で膝をつく。
それでも必死に病衣の少女の頬に手を添えて、伝えなければならないことを伝える。
『マルニィ。あなたはもう死んでしまったの。もうゆっくりお休み。その身体はあなたの物じゃない』
マルニィの言葉を発する少女は、ぽかんと口を開けてニーナを見ていた。
その表情が懐かしいニーナにとって、マルニィを思わせた。
『私はあなたに助けられた。ありがとう。感謝してもし足りないぐらい。だからもう、安心して』
命の恩人に、その死を告げなければならない。
これもまた、死に場所を間違った自分の罪なのかも知れないとニーナは思う。
マルニィに心の中で懺悔する。
マルニィがここに現れた理由が、ニーナの意識に流れ込む。
それはマルニィが、ニーナの生死を確かめたかったから。
ニーナが無事に安全な場所に居て、この先も幸せであること。
それがマルニィが……屍魔に喰われ、屍魔の中で生き続けていたマルニィの意識が願っていたことだから。
この病衣の少女は霊媒なのだ。
屋上で死んだ屍魔の霊魂を、憑依させてしまったのだと、意識の濁流からかろうじて読み取った。
屍魔に喰われた人の魂は、屍魔の中で生き続けていたのだ。
『そうなんだ。そっか。ニーナちゃん。良かった』
マルニィの意識はそう呟くと、マルニィらしい柔和な笑顔をつくり、そして消失した。
ガクリと、その顔が落ち、病衣の少女の全身が脱力する。
その様子に死力を尽くして取り押さえていた耕一は、バランスを崩して転がった。
何が起こったのかわからない顔で、耕一は説明を求めるようにニーナを見た。
「そうか、コーイチは今のやり取りがわからなかったんだ。そうだよね。私の国の言葉使ってたからね」
ニーナが耕一に事の顛末を説明しようとしたとき
「貴方たちは、いったい何なんですか?」
見知らぬ小柄なショートカットの女子生徒が後ろから声を掛けてきた。
そういえばこの女子生徒は、さっき猫と会話してた子だとニーナは気づいた。
この子はどこまで見ていたのだろう?
どこまで説明していいものだろうか?
助けを求めて、耕一を観ると、彼もニーナに助けを求めて見ていた。
「貴方たちは、いったい何なんですか?!」
返事の無いニーナたちに業を煮やし、女子生徒は同じ質問を少し強めの語調で繰り返した。
女子生徒の語気は強いが、その全身が震えていた。
「何って、あの私にも今何が起こったのか解らないんです。突然、この人に襲われまして」
そう言って足元で倒れている病衣の少女を見た。
耕一に答えてもらいたかったが、女子生徒が明らかにニーナに向けて詰問していたので、ニーナが答えざるを得なかった。
「いえ、そのことではありませんです」
彼女は静かに首を振り、まるでニーナの心に問いかけるように、その言葉を発した。
「マルニィって、いったい誰なんですか?」
女子生徒は、何か恐ろしいものでも見たかのようにぶるぶると全身を震わせていた。




