第95話 朝一番の工房
朝。
王都の職人街は、もう動き出していた。煙突から煙が立ちのぼり、あちこちの工房から、槌の音が聞こえてくる。
その通りを、紙の束を抱えた女の子が、早足で歩いていく。目の下にクマ。髪は、ちょっとはねている。一睡もしていない。なのに、目だけは爛々と輝いていた。
工房の戸を、叩く。
とんとん、とん。
「開いとるよ——」
戸を開けると、作業台で図面を広げていた親方が、顔を上げた。
「おや、お嬢さん? 朝一番から、どうし——」
「これ、見てください」
ピリカは、挨拶もそこそこに、紙の束を差し出した。
親方は、受け取って——最初の一枚を見て、止まった。
次の一枚を、めくる。さらに、止まる。
三枚目。めくる手が、ゆっくりになる。
「……お嬢さん」
「はい」
「これは、注文書か」
「いえ——まだ、注文じゃありません。試作の、お願いです。本当に動くものが作れるのか、皆さんと一緒に、実験したくて」
「ドライヤーの中身を——こう、したい、と」
「はい」
⸻
紙には、絵と、矢印と、簡単な書き込みだけがあった。
『熱を奪う領域』と書かれた囲み。『熱を与える領域』と書かれた囲み。そのあいだを結ぶ、太い矢印。
それだけ。それだけなのに——親方は、いつしか身じろぎひとつ、しなくなっていた。
「……熱を、『奪う』と、書いとるな」
「はい。生み出すんじゃなくて——移動させたいんです」
「移動」
「空気から熱を奪って、別の場所に押し付けます。前から温風、後ろから冷風。熱は、どこにも生まれていません。ただ、移動しているだけです」
親方が、ピリカを見た。
長く、長く、見た。
それから、もう一度、紙に目を落とした。
「……生み出さんのなら……術として世界に頼む仕事が、まるごと小さくなる、ということか……? いや、しかし、そんな術式は見たことが……」
ぶつぶつと、呟きが漏れる。職人の頭が、猛烈な速さで回り始めているのが、傍目にもわかった。
「——術式の、当てはあるのか」
「あります。……これを」
ピリカは、胸に抱えていた金属の丸い板を、両手で差し出した。
親方の目が、今度こそ、釘付けになった。
見慣れた板だった。ドライヤーの中に入っている、術式を刻むための、あの板。——だが、そこに刻まれた陣は、見たこともないほど小さく、単純な陣だった。
「今朝、お師匠様が刻んでくださいました。コップの水で、熱が移るのは確かめてあります。——でも、これは『原理』の陣です。ドライヤーに合わせて組み直して、量産できる術式にするのは……私には、できません」
ピリカは、頭を下げた。
「——皆さんに、お願いに来ました」
工房の入り口が、しんと静まり返った。
親方は、口を開けて、閉じて、もう一度、紙の束を見た。
「……つまり、こういうことか。お嬢さんが『こうしたい』と言い、グリモワルド様が『原理』を描き——わしらが、それを『品物』に翻訳する」
「はい。——お願い、できますか?」
親方は、絵をもう一度、見た。
熱を奪う領域。熱を与える領域。矢印、一本。
あまりにも単純で、あまりにも、誰も考えたことのなかった図。
親方は、ゆっくりと顔を上げ——息を、大きく吸い込んだ。
「野郎ども、手ぇ止めろ!! 全員集合だ!!」
怒鳴り声が、工房中に響き渡った。
奥の作業場から、槌の音が、ぴたりと止む。職人たちが、道具を握ったまま、何事かと集まってくる。
「お、親方!? どうしたんです、朝っぱらから!?」
「でかい話だ! ——お嬢さんが、とんでもねえ試作の話を持ってきた!」
⸻
朝日の差し込む工房で、作業台に広げられた紙の束を、職人たちが囲んでいた。
「熱を……奪う……?」
「おい、これ、生成じゃねえぞ。生成じゃねえ陣なんて、どう刻むんだ」
「ほら、この陣があるだろ」
作業台の真ん中——金属の丸い板を、皆が覗き込む。
「は? なんだ、この単純なのは。……こんなもんで、ほんとに動くのか?」
「動くらしいぞ。グリモワルド様の直筆だ」
「だから、こいつをどうドライヤーに組み込むんだって話を——」
「わからんから、今こうして集まってんだろうが」
わいわいと、声が飛び交う。
その輪から半歩離れて——親方が、ピリカの横に並んだ。
「ところでお嬢さん。ひどい顔だが、ちゃんと寝てるか」
「寝てません!」
「即答するんじゃない。……これが落ち着いたら、家に帰って寝ろよ。お嬢さんに倒れられたら、わしらが困るんだからな」
「……はい。えへへ」
作業台では、まだ声が飛び交っている。
ピリカは、その熱の輪を眺めながら、眠気も忘れて、わくわくしていた。




