第94話 ”熱を移動させる”魔法陣
朝日が、机の上の紙の山を照らしていた。
ピリカは、その一番上の紙を、じっと見つめていた。
『熱を移動させる』
やりたいことは、決まった。仕組みも、描けた。熱を奪う場所。熱を渡す場所。あいだを結ぶ、矢印。
でも——ひとつだけ、足りないものがある。
魔法陣だ。
魔道具は、魔法を陣のかたちに刻んで動く。「温風を出せ」の陣。「水を出せ」の陣。「明かりを灯せ」の陣。ぜんぶ、もとになる魔法があって、初めて刻める。
じゃあ——「熱を移せ」は?
そんな魔法、聞いたことがない。誰も、作らなかったからだ。熱が欲しければ、「出す」。それで済む人たちだけが、魔法を使ってきたから。
誰も作ったことのない魔法を、ゼロから形にできる人なんて、世界に——。
(……ひとりしか、いない)
ピリカは、紙の束をかき集めた。
⸻
階段を降りかけたところで、玄関の戸を叩く音がした。
「おはようございます。アリサです」
朝稽古の時間だった。
戸が開いて、アリサが礼儀正しくお辞儀をして——顔を上げて、固まった。
「……ピリカ?大丈夫?」
階段の途中に、紙の束を抱えた、ぼさぼさ頭のピリカがいた。目の下には、くっきりとクマ。なのに目だけが、爛々と輝いている。
「アリサ、おはよう! ——それで、お師匠様!!」
「おはようの続きがわしなのは、なんでじゃ」
居間の椅子から、グリモワルドが呆れ顔を覗かせた。
ピリカは階段を駆け降りて、テーブルに紙の束を、ばんっと広げた。
「『熱を移動させる』魔法陣を、ください!!」
「……ふむ?」
⸻
説明は、支離滅裂だった。
頬が冷たくて、机があったかくなって、冊子の最後のページに合言葉があって、熱は生まれてなくて、引っ越しただけで、だから生み出さなくていいんです、移すだけなら絶対に軽いんです、でも「移す」魔法陣がなくて、だって誰もそんな魔法を作ってなくて——。
「落ち着け。落ち着かんか。……お主、昨日、ちゃんと寝たのか?」
「寝てません!!」
「威張るでない」
グリモワルドは、ため息をついて——それから、テーブルの上の紙に、目を落とした。
熱を奪う領域。熱を与える領域。矢印、一本。
「……移す、のう」
しばらく眺めて、首をひねった。
「出すのも移すのも、わしには大差ない気がするがのう。……ま、よいわ。お主がそこまで言うなら、何か、あるんじゃろ」
よくわかっていない顔のまま、グリモワルドは、よっこらせと椅子から立ち上がった。
⸻
「ふむ」
指を振ると、部屋の隅の物入れがひとりでに開いて、金属の丸い板が、ふわりと飛んできた。
ピリカにも、見覚えがあった。ドライヤーの中に入っている、術式を刻むための板だ。
グリモワルドは、板を目の前に浮かべたまま——それに、語りかけた。
「——『こちらの熱を、そちらへ運べ』」
ぴく、と。
板の表面が、さざ波みたいに震えた。
次の瞬間——さささっ、と、細い線が走り出した。
誰も触れていないのに、板が、みずから削れていく。銀色の粉が、こぼれる先から、ふわりと宙に溶けて消える。中心に、小さな円。その縁を、見たこともない文字が、追いかけっこするように並んでいく。線と線が出会うたび、ちかっ、と淡い光が瞬いて——刻まれた溝の奥へ、吸い込まれていった。
ピリカは、瞬きも忘れて見入っていた。隣で、アリサも息を呑んでいる。魔法陣が生まれる瞬間なんて、職人さんの工房でだって、見せてもらえない。まして——世界にまだひとつもなかった陣が、いま、目の前で生まれている。
線が走る。曲がる。結ばれる。
そして——。
ぴた、と。
音もなく、止まった。
……。
三人、そろって、板を覗き込んだ。
「……ん? 終わったのか、これは」
「お、終わり……? ……ちっちゃ。……こんなに小さくて、大丈夫なのかな」
「それに……ドライヤーのものと比べて、とても単純に、見えます」
もっと続くと、誰もが思っていた。ドライヤーの陣を見慣れた目には、拍子抜けするほどだった。あのびっしりと術式の詰まった陣の、何分の一の線もない。余白のほうが、ずっと広い。
「……ほう」
当のグリモワルドが、板を裏返したり、光に透かしたりしている。
「随分と、小さく単純な陣になるものじゃな。……『生み出せ』と命じんだけで、こうも縮むか」
本人にも、よくわかっていないらしかった。
「アリサ、すまんが、水を二杯汲んできてくれんか」
「は、はい!」
⸻
アリサの汲んできた二つのコップが、陣の板を挟んで、テーブルに並んだ。
グリモワルドが、陣に指を置く。
一瞬だった。
左のコップは、冷たく。右のコップは、ぬるくなっていた。
「動いては、おるな。——が」
グリモワルドは、首をひねった。
「軽いも重いも、わしには、さっぱりわからん。ドライヤーを回すのと、何も変わらん気がするのう」
……そうだった。この人は、大魔法でも使わないと、減った気すらしない人なのだ。
「ピリカ。お主が、確かめてみい。——ほれ、今度は逆向きに、運んでみるとええ」
ピリカは、ごくりと唾を飲んで、陣の端に指を置いた。
——動け。
ふ、と。
羽根で撫でられたくらいの、手応えとも言えない手応え。それだけだった。
左のコップに触れる。——ぬるい。
右のコップに触れる。——冷たい。
「…………かるい」
声が、震えた。
ドライヤーを使えば目眩がする、この私の魔力で——今、確かに、熱が動いた。なんでもない顔で、動いた。
「かるいです、お師匠様。ぜんぜん、へっちゃらです……!」
「そうか。……ふうむ。そういうもんかのう」
わかったような、わからんような顔で、グリモワルドは顎を撫でた。
⸻
「ありがとうございます!! これ、お借りします!! 行ってきます!!」
ピリカは陣の刻まれた板を、宝物みたいに胸に抱えると、玄関へ駆け出した。
「こら、待たんか。今日の稽古は——」
ばたん!
「——やらんでよいから、落ち着いたら、きちんと休むんじゃよ……?」
戸の閉まる音に間に合わなかったお小言が、誰もいない玄関に、ぽつんと落ちた。
⸻
居間に、静けさが戻ってくる。
「……行っちゃいましたね」
「じゃな」
「熱を、移動させる……。ピリカが最近悩んでた、廉価版ドライヤーのお話、でしょうか」
「どうじゃろうなぁ」
グリモワルドは、素知らぬ顔でコーヒーを啜った。……その口元が、ほんの少しだけ緩んでいるのを、アリサは見なかったことにした。
「さて」
カップを置いて、グリモワルドはアリサを見た。
「たまたま、二人じゃ。今日の稽古は取りやめて——魔法でコーヒーを淹れる方法でも、詳しく教えてやろうかと思うが。どうじゃ」
「! ……嬉しいです! 実は、お家で何度か真似してみたのですけど、どうしても、お師匠様のようには上手くできなくて」
「稽古のときと、同じ顔じゃのう。……コーヒーくらい、もうちっと気楽に構えんか」
棚から、豆の袋がふわりと浮く。それを目で追いながら、アリサは、ふと尋ねた。
「でも……どうして、急に?」
「ほら、あれじゃ、ピリカの兄。わしがおらん時に、あやつが来て、コーヒーのひとつも出せんかったじゃろ」
(私も、いつもこのお家にいるわけではないですが……?)
理由になっているような、なっていないような。首をかしげるアリサに、グリモワルドは、こともなげに続けた。
「まあ、あれじゃ。うまいコーヒーを淹れられる者が、わしの他に、もう一人くらいおった方が——何かと、都合がええんじゃ」
それがどういう意味なのか、アリサが本当に知るのは——もっと、ずっと、先の話。
朝の光の差し込む居間に、やがて、豆の爆ぜる小さな音と、深くて香ばしい匂いが、ゆっくりと満ちていった。




