第93話 連鎖の夜明け、魔道具の革命
机に残った、頬のかたちの温もりを撫でながら、ピリカは考えていた。
——熱は、移動する。
ドライヤーなら、こうだ。周りの空気から熱を集めて、吹き出し口の空気に押し付けて、前に吐き出す。熱を奪われた空気は、冷たくなって、後ろから出ていく。
前から、温風。後ろから、冷風。
熱は、生まれない。ただ、前と後ろで、引っ越すだけ。
——それは、わかった。
ピリカは、図を描き終えて、ペンを置きかけた。
……ふと、ランプの灯りが、目に入った。
窓の外は、まだ真っ暗。
——もし。
——向きを、反対にしたら?
息を、呑んだ。
前から冷たい空気を出して、暖かい空気を後ろから捨てれば——それは。
「……冷風機」
夏。うだるような暑さの日に、冷たい風が出てくる箱。
そんなもの、世界のどこにもない。——ううん、一軒だけ、ある。丘の上の、あの家。夏になると涼しい風を吐き出す、あの暖炉。お師匠様の底なしの魔力が、力ずくで叶えていた贅沢。……あれが、熱を運ぶだけでいいなら——誰の家にでも、置ける。氷を扇ぐしかなかった涼が、箱ひとつで手に入る。
ピリカは、紙を引き寄せた。震える手で、図を描き始める。
⸻
描きながら、頭の奥で、何かが次々と、扉を開けていった。
——もし、大きく作って、部屋全体に効かせたら?
部屋の空気ぜんぶから熱を奪って、外に捨てる。部屋は、涼しくなる。夏の夜会の広間が、涼しい。
逆向きにすれば——外の熱を部屋に汲み入れて、冬の部屋が、暖かい。
一台で、夏も冬も。
——もし、床の下に、長い管として仕込んだら?
足元から、ほのかに暖かい。暖炉の前だけじゃない。部屋じゅうの床が、ぜんぶ暖かい。
ピリカは図の横に『床暖房』と書いた。
——もし。
ペンが、一瞬、止まった。
——もし、断熱した箱の中の熱を、外に捨て続けたら?
箱の中は、ずっと冷たいまま。
——台所の隅の、あの土色の箱と、同じだ。お師匠様が当たり前の顔で使っていた、卵とお肉の眠る冷たい箱。あれも、お師匠様の魔力があって初めて動くものだった。でも——熱を、捨てるだけでいいなら。
冷たいままなら——食べ物が、傷まない。
「…………」
ピリカは、机の端の、飲みかけの水差しを見た。それから、ぼんやりと、台所の方を思った。
夏、肉は一日で悪くなる。魚は半日。だからみんな、毎日買いに行く。買えなかった日は、固いパンと豆。氷は高くて、貴族しか買えない。
もし、冷たいままの箱が、街のお肉屋さんに、市場に、普通の家に、あったら。
「……食べ物が、腐らない」
声に出して、自分の声に、鳥肌が立った。
これは、ドライヤーなんて規模の話じゃ、なくなっている。
⸻
ペン先が、紙を駆けていく。
冷風機。部屋ぜんぶの冷暖房。あったかい床。冷たいままの箱。図と、矢印と、走り書き。一枚埋まるたび、新しい紙を引き寄せる。
窓の外で、星が動いていた。ひとつ、また、ひとつ。
夜風が、開けっぱなしの窓から入ってくる。インクが乾く。手が冷たい。気づかない。
——熱を『生み出す』が『移動させる』に変わるだけで。
——たった、それだけのことで。
世界中の「温度」に関わるぜんぶが、ひっくり返っていく。
⸻
どれくらい経っただろう。
ピリカは、ペンを置いた。
両手で顔を覆って、しばらく、そのままでいた。
指の間から、息を吐く。長く、長く。
それから、ゆっくりと——窓の外を見た。
夜が、明けようとしていた。
東の空が、薄く、青白く染まり始めている。
机の上には、何枚もの図。インクの匂い。乱雑な線。震えた手で書かれた、生まれたての発想たち。
ピリカは、それを一枚ずつ、見下ろした。
「……魔道具が、変わる」
声に出して、自分で言った。
誰も聞いていない部屋で、もう一度、言った。
「世界が、変わる」
朝が、来た。




