第92話 頬の冷たさ、机の温もり
夜中。自分の部屋。
机の上には、紙が何枚も散らばっていた。
『熱を、少ない魔力で、出す方法』
一番上の紙に、そう書いてある。その下は、書いては消し、書いては消した跡だらけだった。
職人ギルドからもらった、グリモワルド式の魔法陣の解析図。それを何度にらんでも、何も浮かばない。「温風を出す」は、もう磨き上げられている。無駄なんて、一筋もない。
術式を削る——だめ。もう削れない。
熱を減らす——だめ。ぬるくなるだけ。
風を減らす——だめ。そこは魔力消費にあまり影響しない。
魔力を増やす——できない。魔力量は、生まれつき決まっている。
ぐるぐる。ぐるぐる。同じところを、何周も回る。
窓の外は、もう真夜中だった。
ペンを、置く。
「あーー、だめだぁ……」
ピリカは、机に突っ伏した。
⸻
頬が、机に当たる。
——冷たい。
木の机は、夜の冷気を吸って、ひんやりとしていた。
火照った頬に、その冷たさが、気持ちよかった。
しばらく、そのまま。疲れた頭で、ただ、机の冷たさを感じている。何も考えない。考えられない。今日はもう、寝よう。明日また、考えよう……。
とろとろと、まどろみかけた——そのときだった。
——あれ。
頬が、ひんやりしてる。
最初あんなに冷たかった机が、頬の下で、ほんのりと温かくなっている。
ピリカは、ゆっくりと、顔を上げた。
頬を触る。——さっきより、冷たい。
机を触る。——突っ伏していた場所だけ、ほんのり温かい。少し離れた場所は、まだ、ひんやりと冷たいままだ。
……。
…………。
——熱が、移った。
私の頬から、机に。
頬の熱は減って、冷たくなった。机は熱をもらって、温かくなった。熱は、消えてもいないし、生まれてもいない。ただ——場所を、移しただけ。
……それが、なんだと言うのだろう。寝ぼけた頭は、まだ、追いつかない。
追いつかないのに——胸の奥だけが、妙に、そわそわしていた。今、何か、とても大事なものに触った気がする。それが何なのかは、あと一歩のところで、掴めない。
ぼんやりと、視線がさまよう。掴めない「何か」の尻尾を、探すみたいに。
散らかった紙の間に、あの冊子が、開いたまま埋もれていた。『はじめての魔術』。今夜、何かヒントはないかと、隅から隅まで読み返した——三人で作った、16ページの薄い冊子。
開いていたのは、いちばん最後のページ。丸っこい字で書かれた、あの合言葉が、目に飛び込んでくる。
——『創るは才能、動かすは知識。』
……動かす。
動かす?
「……あ」
心臓が、どくんと跳ねた。
「あ、これ……」
ピリカは、立ち上がった。椅子が、がたんと音を立てて倒れた。気にしている場合じゃなかった。
新しい紙。ペン。
手が震えて、インクが一滴、紙に落ちた。
⸻
——熱は、生み出さなくて、いい。
——移動させれば、いい。
書く。
空気の中には、もともと熱がある。冷たい夜の空気にだって、熱は入っている。その熱を、空気から奪って、一箇所に押し付ければ——押し付けた先は、温かくなる。奪われた空気は、冷たくなる。
それだけだ。熱は、一度も生まれていない。ただ、引っ越しただけ。
無から熱を生み出すのは、世界に大仕事をさせることだ。だから、大きな魔力が要る。
でも、そこにあるものを、隣に動かすだけなら——。
(……動かすだけなら、きっと、ずっと、ずっと軽い)
真空と同じだ。風と同じだ。水と同じだ。
ゼロから作るんじゃない。そこにあるものを、動かす。私が今まで、ずっとやってきたことと——同じ。
あの合言葉は、正しかった。ちゃんと、正しかったのだ。ただ、書いた本人が——熱も「そこにあって動かせるもの」だって、気づいていなかっただけで。
ペンを持つ手が、震えていた。
寒さのせいでは、なかった。
窓の外は、まだ真っ暗で。
机の上の、頬のかたちにほんのり残った温もりだけが——世界でいちばん新しい発見の、最初の証人だった。




