第89話 押しかける主席宮廷魔法使い
翌朝の早朝。グリモワルドの家。
ドンドンドン、と。
扉が、壊れそうな勢いで叩かれた。
「は、はーい!」
ピリカが扉を開けると——ボルトランが、立っていた。
目の下に、くっきりとしたクマ。手には、見覚えのある薄い冊子。
「グリモワルドはいるか」
「ボ、ボルトラン様!?おはようございます」
「——この冊子のことだ」
手に持った冊子を掲げてみせた。
⸻
居間。
グリモワルドは、いつもの椅子で、いつものコーヒーをすすっていた。
「なんじゃ、朝から騒々しい」
「これを」
ボルトランが、テーブルに『はじめての魔術』を置いた。
「これを、世に広めるつもりか」
「わしではない。ピリカがやっとることじゃ」
「……お前が、裏で手を引いているのだろう」
「知らんわい。弟子が勝手にやっとる」
「勝手に……?」
ボルトランが、眉を寄せて、ピリカを見た。
ピリカは、一歩前に出た。
怖い顔をした主席宮廷魔法使い。でも、不思議と、足は震えなかった。
「ボルトラン様。これは、私がやりたくて、やっています」
「…………」
「お師匠様の理論を、魔力が少ない人にも届くように。——私みたいに苦しんでる人の、助けになるように」
ボルトランは、しばらくピリカを見つめてから、椅子に、どっかりと腰を下ろした。
「……お前は、これがどういうものか、わかっているのか。これが広まれば、魔法という体系そのものが——」
「ボルトランよ。先に、わしから弟子に聞くことがある」
グリモワルドが、コーヒーを置いた。
⸻
「ピリカ。知識を広めるのはいいんじゃが——お主の優位性が、なくなるぞ?」
静かな問いだった。
魔術は、今、ピリカたちだけのものだ。商売の種としても、身を守る力としても。広めてしまえば、それは消える。
ピリカは、少しだけ考えて——いつもの調子で、答えた。
「もう一生暮らせるだけのお金は、充分貯まりましたし。私がいち魔術使いとして、どんなに魔術を極めても、師匠に勝つ未来はないんで。それよりは——昔の自分みたいな子がいたら、救ってあげたいなって」
「まぁ、お主がわしに魔法や魔術で勝つことは、未来永劫ないの」
「そこじゃないです!! ちゃんと話聞いてました!?」
「かっかっか」
グリモワルドは、ひとしきり笑ってから——ふ、と真顔になった。
「——ひとつだけ、条件じゃ」
「条件?」
「アリサと、ボルトランも頼れ」
グリモワルドは、テーブルの冊子を、こんと指で叩いた。
「お主のやろうとしとることは、ただ魔術を広めることではない。——魔法という、既存概念の破壊じゃ。生半可なことでは進まんし、既得権益側の力もいる。あの2人なら、その辺りの助けになるじゃろう」
「……お師匠様は、助けてくれないんですか?」
「いやじゃ」
即答だった。
「なんでそんな極めて面倒なことをするか、全く理解に苦しむわい」
「ひ、ひどい……」
「ま、本当に何かあったら言え。——相手を、消し炭にはしてやろう」
「逆に言えないんですけど!?」
「かっかっか!」
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「それにしても」
グリモワルドは、コーヒーを淹れ直しながら、しみじみと言った。
「庭先でぴーぴー泣きながら魔力切れで倒れてた小娘が、他人を救いたいなどと——ずいぶん、えらくなったもんじゃな」
「師匠の、おかげです」
「ま、そうじゃな」
「そこは『お前の努力だ』って言ってくれるところじゃないんですか?」
ピリカが笑うと、グリモワルドは、ふんと鼻を鳴らした。
「お主、べつに、わしに会う前から努力はしてたじゃろ。——見当違いじゃったけど」
「た、たしかに……」
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ボルトランは——黙って、その遣り取りを見ていた。
60年来の親友が、弟子と軽口を叩き合っている。
あの、面倒くさがりで、人嫌いで、誰にも興味を示さなかった男が。弟子の行く末の障害を数え上げて、足りない駒を、先回りして揃えようとしている。
——こんな顔も、するのだな。お前は。
ボルトランは、膝の上で手を組んで、静かに口を開いた。
「……グリモワルド」
「なんじゃ」
「わしも、手伝おう」
「ほう。殊勝なことじゃな」
「お前が面倒くさがるからわしがやらなきゃならん。——まぁ、いつものことだ」
グリモワルドが、にやりとした。
ピリカは、二人の老人を交互に見て——なんだか、胸の奥があったかくなった。
⸻
ボルトランが帰ったあと。
「そういえば、ピリカ」
グリモワルドが、ふと言った。
「はい?」
「金を稼げと言ってから——そろそろ、半年じゃの」
「——あ」
そういえば、そうだった。
あの朝。実家のお菓子をつまみながら言い渡された、宿題。猶予は半年。魔物を月に1、2匹狩ってくれば問題ない、なんて言われて、Fランクで撃沈して——あれから、もう半年。
グリモワルドは、コーヒーをすすって、ピリカの顔を見た。
「店を開いて、人を雇って、本まで作って——ま、及第点じゃな」
「及第点!? これで!?」
「かっかっか!」
窓から差し込む朝の光の中で、グリモワルドは、楽しそうに笑った。
丘の上の家に、いつもの笑い声が響く。
——半年前、お金の稼ぎ方ひとつ知らなかった女の子は、もう、どこにもいなかった。




