第88話 主席宮廷魔法使いの夜明け
「お祖父様、これ」
夕食の後。アリサが、薄い冊子を差し出した。
「ピリカたちと、作ったの」
「ん? なんだ、これは」
ボルトランは、受け取って、表紙を眺めた。
16ページの、手作りの冊子。糸で綴じてある。丸っこい字で——『はじめての魔術』。
「まじゅつ……? 魔法の、書き間違いか?」
「ふふ。読んでみて。面白いから」
「ふむ……。子供向けの、入門書か何かか」
「お祖父様なら——読めば、すぐわかると思う」
アリサは、それだけ言って、にこにこと部屋に戻っていった。
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夜半。書斎。
執務を終えたボルトランは、椅子の背にもたれて、ひと息ついた。肩には、孫にもらった魔導毛布。手放せなくなって久しい。
ふと、机の端の冊子が目に入った。
『はじめての魔術』。
「……どれ」
孫が楽しそうに勧めてきたのだ。寝る前に、ぱらりと目を通すくらいは——
そんな軽い気持ちで、ボルトランは、最初のページを開いた。
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第1章。火を起こす。
『火は、むずかしそうに見えます。でも、ほんとうは、みっつに分けられます。——燃料と、着火と、空気です』
「…………ふむ」
子供向けの言葉だ。だが——書き出しから、妙だった。
火の魔法の入門書なら、まず詠唱が載るはずだ。正しい発音、魔力の込め方、心構え。どの教本も、そうだった。何百年も、そうだった。
この冊子には、詠唱が——どこにも、ない。
かわりに、こう続いていた。
『「炎よ、出ろ」は、燃料も、熱も、空気も、ぜんぶいちどに創ってもらう、いちばん重たいやり方です。——分けましょう』
「……分ける?」
思わず、声が出た。
魔法を、分ける。呪文を、料理の手順のように、工程へ。——60年、魔道の書という書を読んできて、そんな一文は、ただの一度も、見たことがなかった。
『魔力で創るのは、燃料だけ。まずは、豆つぶひとつぶんで、じゅうぶんです。着火は、ほんの一瞬ですみます。空気は、創ってはいけません。そこにあるものを、送りこむだけ』
——創っては、いけません。
ボルトランは、その一行を、三度読んだ。
魔法とは、創ることだ。無から有を成すからこそ、奇跡と呼ばれ、才と呼ばれ、力と呼ばれてきた。それをこの冊子は、靴紐の結び方でも教えるような調子で、こともなげに禁じている。
『火は、風と水ほどは、軽くなりません。ごめんなさい。でも、順番に分けるだけで、半分になります』
「……謝って、おるのか」
教本が、読み手に謝っていた。魔力の少ない子に向かって、火は少しだけ重いのだと、先回りして頭を下げていた。——そんな教本が、この世のどこにあった。
ページをめくる。第2章、水。
『水は、空気の中に溶けています。信じられないと思いますが、本当です。だから、雨が降ります』
やかんの湯気。冬の白い息。曇った風呂の鏡。朝の草の露。——証拠が、四つ。どれも、今夜のうちに、庭先でたしかめられるものばかり。
ページをめくる。第3章、風。
『風を新しく創る必要はありません。そこにある空気を、すこし動かすだけでいいのです』
——めくる手が、止まらなくなっていた。
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読み終えたとき、書斎の蝋燭は、半分まで溶けていた。
ボルトランは、しばらく、天井を見つめた。
——これは、今までの魔法とは、根本的に違う。
魔法は、結果を世界に願う。火よ、と唱えて、火をもらう。だからこそ、世界に願いを聞き届けさせるだけの魔力が要る。それが大前提だ。何百年も、誰も疑わなかった大前提だ。魔力なき者が学園を去るのも、魔力の多寡が家格を分けるのも、ぜんぶ、その上に建っている。
この冊子は、その前提を、素通りしている。
結果を、願わない。——過程を、指定する。
世界に「火をくれ」と頼むのではなく。火が生まれる道筋を知って、その道筋を、いちばん軽いところから、自分の手で踏んでいく。
最後のページにあった、丸っこい字の一行が、目の奥に焼きついて、離れなかった。
『創るは才能、動かすは知識。』
「……ばかな」
口では、そう言った。60年の修練が、そう言わせた。
だが、指は——冊子の端を、もう一度めくろうとしていた。
ボルトランは、立ち上がった。毛布が、肩から滑り落ちた。
試すべきだ。理屈がどれほど奇妙でも、実際にやれば、底が知れる。——底が知れると、このときは、まだ思っていた。
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窓を開ける。夜気が流れ込む。
まずは、書かれたとおりの順番で——第1章、火。
頭の中で、三つに分ける。魔力で創るのは、燃料だけ。豆つぶ、ひとつぶん。着火は、一瞬。空気は、創らずに、送りこむ。
——ぽっ。
掌の先に、小さな火が、灯った。
「…………なんと」
灯った。それは、いい。火を灯すだけなら、詠唱でもできる。問題は——
——半分。
本当に、半分だった。60年慣れ親しんだ火の魔法の、およそ半分の消費で、同じ火が、掌の先で揺れている。詠唱も、なしに。
ボルトランは、机の上の冊子を、振り返った。
『火は、風と水ほどは、軽くなりません。ごめんなさい』
(——待て。消費魔力が半分になるのだぞ。この劇的な効果を、『ごめんなさい』と……この教科書の書き手は、謝って、おるのか……!?)
そして、気づいた。あの一文は、裏を返せば——風と水は、この半分より、さらに軽いということだ。
背筋に、冷たいものが走った。
第2章、水。
空気の中の水を、一点に、集める。——掌の上に、ひんやりと、水滴が滲んだ。
「…………」
消費が——わからない。
少ない、のではない。感じ取れないのだ。60年、魔力を練り続けたこの身で、削られたものを、探し当てられない。
第3章、風。
冊子は『はじめは、かるい綿を掌にのせて』と勧めていたが——見えない空気の在り処くらい、綿がなくとも、わかる。
『そこにある空気を、すこし動かすだけ』
——ぶわり。
風が、起きた。
もう一度。——ぶわり。
もう一度。——ぶわり。
何度やっても、減らない。ほとんど、減らない。詠唱で起こす風の、何十分の一。いや、もっとか。羽根で肩を撫でられたような消耗で、同じ風が、起き続けている。
——60年、魔力とは、削って使うものだった。祈って、絞り出して、対価を払って、世界からもらうものだった。それが。
くらり、と。
視界が、揺れた。
魔力切れの眩暈なら、若い頃に何度も知っている。これは、違う。使った魔力は、豆つぶほどもない。——揺れたのは、身体ではなく、60年立ってきた足場のほうだった。
ボルトランは、窓枠に手をついて、夜風の中で、自分の掌を見つめた。皺だらけの、60年使い込んだ、魔法使いの手だ。その手が——かすかに、震えていた。
60年かけて、山の頂に立った。主席宮廷魔法使い。この国の魔法の、頂点。
その山の裏側に——子供の丸っこい字で、道しるべが立っていたのだ。
『こちらの道からも、のぼれます。ためしてみてください』
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椅子に、深く座り直す。落ちた毛布を拾い上げて、膝に掛けた。
これが世に広まれば、どうなる。
魔力の多寡で人の価値が決まる、この世界の秩序は。魔力なき者は何も起こせぬ、という大前提の上に組み上がった、貴族の、学園の、宮廷の体系は——
揺らぐ。音を立てて、揺らぐだろう。自分が60年かけて登り、守り、その頂に座ってきた、体系そのものが。
……恐ろしい、はずだった。
なのに、胸の奥で騒いでいるこれは、恐れというより——見習いの頃、生まれて初めて詠唱が通った夜と、同じ音がしていた。
そこまで考えて、ボルトランは、ふと口元を緩めた。
「——グリモワルドか」
この発想。この理屈。世界の仕組みを知り尽くしたうえで、いちばん軽いところだけを突くような、この底知れなさ。
あいつの理論だ。間違いない。
60年の間、隣で見てきてなお全く理解できなかったものだ。
「だが……」
冊子を、もう一度、手に取る。
丸っこい字。子供にもわかる言葉。つまずく場所への、先回りの注意書き。読み手への、謝罪まで。——あいつには、こんな丁寧なことは、書けない。たとえ死んで生まれ変わっても書けない。
これを体系化して、誰にでも届く形にしたのは。
「……あの子か」
才無しと呼ばれていた、孫の親友。
——お祖父様なら、読めば、すぐわかると思う。
夕食の後の、孫の顔を思い出す。いたずらが成功した子供のような、あの笑顔。……わかったとも。わかりすぎるほど、わかってしまった。
——世界最高の才能を持つ男と、逆に才を持たぬ女子。
本来なら、決して交わるはずのなかった二人だ。それが、あの丘の上の家で出会って、組み合わさると——何百年も誰も疑わなかった魔法の大前提を、16ページで揺るがすものが、生まれるのか。
ボルトランは、窓の外を見た。
東の空は、まだ暗い。だが——夜明けは、もうそう遠くなかった。




