第39話 雲と水
「……そういえば、お師匠様」
アリサが、壁から突き出た金属の管を見て言った。——さっきコーヒーを淹れる時、あの取っ手をひねって水を出していた。
「なぜ水はあの管から出したんですか? お師匠様ほどの方なら、水魔法で出した方が早くないですか?」
「お、良い質問じゃな」
グリモワルドが嬉しそうに言った。
「それをやるとな、空気中の水が減って、空気が乾いて喉が痛くなるじゃろ。この年になるとそういうのがきつくてなぁ」
「空気中の、水……?」
アリサが目を瞬いた。
「空気には水が混じっとるんよ」
グリモワルドが、なんでもないことのように言った。
「だから雨が降る」
「雨は……空から降るんじゃ……ないんですか?」
「空に水が溜まって落ちてくるんじゃよ。雲ってのは、水の粒の集まりじゃ。冷えると水になって落ちてくる。これが雨」
「雲が………水………?」
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アリサの頭が、また回り始めた。
——雲が、水。空気に、水が混じっている。水魔法で水を出すと、空気中の水分が減る。
つまり——魔法で「水を生み出している」のではなく、「空気から水を集めている」ということなのか?
……今日だけで、何回常識が壊れるのだろう。
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「おそらく魔法は、求める結果を出す経路を適当に選んで実現させて————ま、おいおい教えていこう」
グリモワルドが、穏やかに笑った。
ピリカは横で静かに頷いていた。——もう知っている顔だった。
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「ところでアリサ。もう夕方だけど、お家に帰らなくて大丈夫?」
ピリカがふと窓の外を見て言った。陽が傾いている。
「私はここが家みたいなもんなんだけど」
「はっ! もうそんな時間なんですね!」
アリサが慌てて立ち上がった。
「本日はここでお暇させていただきます、ご教授ありがとうございました!」
「かっかっか、大したことはなにも教えてないわい」
グリモワルドが手を振った。
「都合が良い時にピリカと一緒に学園から通ってこい」
「ありがとうございます!」
アリサが深く頭を下げて、玄関に向かった。靴を履いて、もう一度振り返って礼をして——扉が閉まった。
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——帰り道。夕方。
オレンジ色の空の下、アリサは歩いていた。
今日あったことが、頭の中でぐるぐる回っている。並行魔法。遠心分離。短縮詠唱。魔術。弟子入り。水道。雲。
——多すぎる。
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ふと、空を見上げた。
夕焼けに染まった雲が、ゆっくりと流れている。
「…………」
アリサは、立ち止まった。
——あれが、水。
今まで何千回と見てきた雲が、全く違うものに見えた。
白い塊ではない。水の粒が集まって、空に浮かんでいるのだ。あれが冷えると、雨になって落ちてくる。
——知っているだけで、見えるものが変わる。
今日この目で見た全てが、そうだった。コーヒーの中のミルク。炎の中の「何か」。水の中の水素と酸素。空気の中の水。——知れば知るほど、世界の見え方が変わっていく。
これが、魔術。
アリサは、もう一度雲を見上げた。——夕日に照らされた水の粒が、きらきらと光っているように見えた。




