第105話 "半年"の意味
葬送から、何日か経った。
ピリカは、グリモワルドの家で暮らし続けていた。
他に行く場所がないから、ではない。実家はずっと気にしてくれてるし、お店の近くに部屋を借りることだってできる。でも——朝起きて、コーヒーを淹れて、居間の窓から空き地を見下ろす。それをやめてしまったら、何かが、本当に終わってしまう気がした。
アリサは、毎日来てくれた。
来て、何をするでもない。コーヒーを淹れて、向かいの椅子に座って、他愛のない話をして、帰っていく。
淹れ方は——あの人と、同じだった。
豆が宙に浮いて、くるくる回りながら煎られて、挽かれて、丸いお湯と合わさって。詠唱もなく、杖もなく、いくつもの魔法が同時に、静かに進んでいく。あの人が毎朝やっていた、あの光景のままに。
ただ、あの人と違って、アリサはほんの少しだけ、真剣な顔になる。欠伸まじりにやってのける人は、もう、いない。
——あの人がアリサにコーヒーの淹れ方を教えたのは、きっと、私がこうなることまで、わかっていたからだ。
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その日も、二人でコーヒーを飲んでいた。
ふと、アリサが、カップを置いた。
「……ねえ、ピリカ。今思えば、なんだけど」
「ん?」
「"半年"っていう期限にも——意味が、あったのね」
「……どういうこと?」
"金を稼げ、猶予は半年じゃ"——あの朝、実家のお菓子をつまみながら言い渡された、適当な宿題。
「ピリカが普通に達成しちゃったから、特に何も言わなかったけど。——学園を卒業もしていない年齢の女の子に、『半年で稼げるようになれ』って、結構厳しい要求だと思わない?」
「そ、それはそうかも……? でも、お師匠様のことだから、特に深く考えずに、適当に半年って言ったのかなって」
「もちろん、そうかもしれないけど」
アリサは、少しだけ言葉を選んで、続けた。
「でも、今思えば、あれは——『半年の間に自立して、自分の力で生きられるようになれ』っていう……お師匠様の、強引な後押しだったんじゃないかなって」
「————」
ピリカの手から、力が抜けた。
半年。
——自分の残り時間から、逆算した、半年。
金を稼げ。ブランドをつけよ。うちにあるものは、なんでも作れ。アリサとボルトランも頼れ。……そして、最後の、あの授業。
ぜんぶ、一本の線だった。
私が一人で生きていけるように。自分がいなくなった後で、私が困らないように。あの面倒くさがりが——最初から最後まで、逆算して、順番に、置いていってくれた。
「……っ」
涙が、ぼろりとこぼれた。
「お師匠様は、間違ってもそういうことを、直接言うような人じゃなかったから」
アリサも、目を赤くしていた。
「こっちが気づいてあげないと、なかったことになっちゃうし。……別に、気づかれなくてもいい、って思ってる節も、あったというか」
「……うん。……うん……」
ピリカは、ぐしぐしと目元を拭いながら言った。
「ふふ。実は優しいのに——とっても、難しい人だったなぁ」
「ええ。……とても、難しい人だったわ」
二人で、泣きながら、少しだけ笑った。
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コン、コン。
控えめに、扉が鳴った。
——いつかの朝の、まるで戸が壊れそうな叩き方とは、違った。
開けると、ボルトランが立っていた。手には、革の書類鞄。
「……ボルトラン様」
「邪魔をする。——渡すものが、あってな」
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居間のテーブルに、ボルトランは、数枚の紙を置いた。
難しい言葉の並ぶ、公的な書類だった。目が滑る。でも、いくつかの言葉だけは、はっきり読めた。
譲渡。丘の上の家屋。裏手の山林と、丘の下の空き地を含む、周辺の土地一帯。
——受取人、ピリカ・ベルフォード。
「……え?」
「この家と、丘と、裏の山と、空き地までを含めた、土地の一切だ。あやつが生前、事務処理を全部わしに押し付けてきた」
「お、押し付けて……?」
「いつのことだったか。……あやつは、当たり前のような顔をして、言ってきおった」
ボルトランは、遠い目をした。
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——ある日の、グリモワルド邸。
「のう、ボルトラン。家と空き地を、ピリカに移せるようにしておいてくれんか」
「……なんで、わしがそんなことまでやらねばならんのだ。自分でやれ。書類を何枚か、書くだけだろう」
「ドラゴン1匹、タダで狩ってやるから。それで良いじゃろ」
「報酬の釣り合いが、全く取れていない……解せない……」
世界最強の魔法使いにとって、ドラゴンを狩ることは、書類を書くことより、遥かに楽だった。
解せないまま——結局、引き受けた。
これもまた、いつものことだった。
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「遺言状の類は、一枚もない。あやつは、死の支度すらも、全部わしに丸投げしおった」
ボルトランが、ふ、と息だけで笑った。
「最後の最後まで、面倒くさがりのままだった。——だがな、ピリカ嬢」
ボルトランは、書類を、そっとピリカの方へ滑らせた。
「筆無精のあやつが、面倒を我慢してまで、残したがったものだ。それが、どういう意味かは——わかるな」
ピリカは、震える手で、紙を受け取った。
——わしが教えたことは、全てお前の好きに使え。
夕焼けの空で、振り向かずに言った、あの言葉。
知識の話だと、思っていた。
……知識だけじゃ、なかったんだ。この家も。あの空き地も。ぜんぶ、ぜんぶ——あの人の「全て」に入っていたんだ。
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ボルトランとアリサが帰った後。
ピリカは、一人で、家の中に立った。
夕暮れの居間。あの人の椅子。窓の外の、空き地。
台所の隅には、小さなコーヒーの道具一式。——これだけは、私が、あとから買ってきたものだ。この家には、コーヒーの道具が一つもなかった。豆を煎るのも、挽くのも、お湯を沸かすのも——あの人は、ぜんぶ魔法でやってしまう人だったから。
ゆっくりと、家の中を見て回る。
壁から突き出た、金属の管。取っ手を捻れば、水が出る。浴室の同じ取っ手からは、お湯が出る。——初めての夜、「使い方を教えておく」と、ぶっきらぼうに教えてくれた。
火のない暖炉。冬は温かい風を、夏は涼しい風を吐き出す、世界に一台の冷暖房。——あれを「誰の家にも置けるように」したものが、今、街中で売れている。
台所の、土色の箱。卵とお肉の眠る、冷たい箱。——私が冷蔵箱を「発明」するより、ずっとずっと前から、ここで当たり前に働いていた。
部屋の隅には、何でも燃やして、灰ひとつ残さない、あのゴミ箱。鏡のように磨き上げられた、丸い内壁。——……あの日、空き地で見た、あの鏡の球と、同じものだ。
棚には、ドライヤーの一号機と、真空断熱コップ。
初めてこの家に来た夜、私は、このどれひとつ、何なのかわからなかった。開けてびっくりして、覗いてびっくりして、いちいち目を丸くして——「なんじゃ、いちいちびっくりしおって。全部ただの便利道具じゃ」って、呆れられた。
——今は、ぜんぶ、わかる。
どの道具が、何をするものなのか。どういう仕組みで動いているのか。どこが、どれだけ、とんでもないのか。……ぜんぶ、この家で、あの人と暮らしながら、教わったことだ。
右手の小指には、鉄の指輪。
そして——この家。
知識と、道具と、指輪と、居場所。
(……もらって、ばっかりだ)
ピリカは、窓辺に立って、暮れていく空き地を見下ろした。
あの人がいつも座っていた場所から見る空き地は、思っていたより、ずっと広かった。
(お師匠様。私、これ、どう使ったらいいですか)
返事は、ない。
でも、聞こえた気がした。
——好きにせい。
いつもの、面倒くさそうな声で。




