第104話 我が生涯の親友よ
——50年ほど前。
二人がまだ、「老人」と呼ばれるより、ずっと前の話。
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グリモワルド邸の裏庭。
ボルトランは、手の中で水の幾何模様を組んでいた。
水球が八つ。それぞれが違う軌道を描いて、互いにぶつかることなく回り続けている。指先の一本一本にまで神経を通わせて、軌道のひとつひとつを、呼吸で支える。額に、汗が浮いていた。
「のう、ボルトラン」
「ま、魔法の制御中に軽率に話しかけるな……! 制御がみだ、乱れ——」
「お主、どうやって死にたい?」
「んなっ!?」
ボシュッ。
水球がひとつ、宙で弾けた。
「ば、ばかもの! 変な事を言うから制御を失ったじゃないか!」
「その程度で失敗するとは、お主は相変わらず魔法の制御がイマイチじゃのう」
「俺にそんな事を言うのは、お前くらいだ!!」
「で、死に方の話なんじゃが」
「お前、さては全く話を聞いてないな!?」
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グリモワルドは、草の上に寝転がったまま、空を見ていた。
「死んだ後、ソーラーレイで跡形もなく消える、というのはどうじゃ?」
「死に方じゃなくて死んだ後の話じゃないか! というか、ソーラーレイなんて使えるの、お主しかおらんぞ!」
「そうなんじゃよなぁ」
雲が、ゆっくりと流れていく。
「できればミラーボール式のソーラーレイで高火力にして、何も残らんようにして欲しいんじゃが」
「さらっと難易度を上げるな……」
「お主なら、できるかと思うたんじゃがのう」
「気軽に人生最大の難題をぶん投げるな!」
グリモワルドが、かっかっかと笑った。
ボルトランは大きく溜息をついて、弾けた水球を組み直し始めた。
「……誰がやるか、ばかもの」
ぼそりと、そう言った。
グリモワルドは笑っただけで、それきり、その話は二度と出なかった。
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——そして、現在。
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グリモワルド邸の居間に、棺がひとつ、置かれていた。
ある朝のことだった。
——あの授業から、何日も経っていなかった。
いつもの時間になっても、グリモワルドは起きてこなかった。
居間に、コーヒーの匂いがしなかった。
ピリカは、その意味を考えないようにしながら、寝室の扉の前に立った。ノックをする。——返事は、ない。
(……きっと、まだ寝てるだけ)
そう思おうとした。でも、取っ手にかけた手が、震えて動かなかった。
確かめたくない。開けたくない。——でも、私が、確かめてあげなきゃいけない。
ゆっくりと、扉を開けた。
お師匠様は、ベッドの中で——眠るように、冷たくなっていた。
寿命だった。
争いも、病もなく。世界最強のまま、ただ静かに、寿命だった。
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そして現在、居間には、ベルフォード侯爵家の人々と、ボルトランと、アリサ。
葬儀は、身内だけで送る——ボルトランが、そう決めた。国葬などにすれば、棺の中のあやつが嫌な顔をする、と。世間への知らせは、すべてが終わってからでいい。
そして棺のすぐ脇で、ピリカが泣きじゃくっていた。
「お、お師匠、さま……っ、お師匠さま……」
両手で顔を覆って、肩を震わせて、声にならない声を漏らしている。何度呼んでも、もう「なんじゃ」と返ってこない。それが、どうしても飲み込めない。
アリサが、隣で静かに泣いていた。涙を拭うこともせず、ただ、ピリカの背中にそっと手を当てていた。
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ボルトランが、ゆっくりと立ち上がった。
「——二人とも、後ろに下がっていろ」
「えっ……」
ピリカが顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、ボルトランを見上げる。
「丘の下の空き地まで運ぶ。少し、距離をとってくれ」
ボルトランが、棺の上に手をかざした。
棺が、ふわりと宙に浮いた。
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丘の下の、空き地へ。
その日は、雲ひとつない快晴だった。夏の終わりの陽射しが、膝丈の草を白く照らしている。
——かつて、泥だらけの少女が、ひとりきりで、毎日ファイアボールの練習をしていた場所だった。
——やがて、その少女が、もうひとりの弟子と並んで、稽古を重ねる場所になった。
——そして近頃では、丘を上って教わりに来る大勢の人たちに、二人が「魔術」を教える場所になっていた。
ひとりが、ふたりになって、大勢になった。——その全部を、あの人は、決まって庭に石の椅子を生やしてコーヒー片手に眺めていた。
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ボルトランは空き地の中央に棺を降ろし、蓋を開けて、遺体だけを再び、ゆっくりと宙に浮かべた。
——軽い。
浮かべた瞬間、ボルトランは奥歯を噛んだ。魔法を通して、その重さが、否応なく伝わってくる。
あの偏屈で、傍若無人で、戦争を一人で終わらせ、世界をひとりで背負えるほどの男が——こんなにも、軽い。
ボルトランは十分に距離をとった。
杖を両手で握り直し、地面に、深く突き立てる。
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「やはりわしは、生涯お前を越えられんかったな」
誰に言うでもなく、ボルトランが呟いた。
「これが、餞だ」
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ボルトランが、深く息を吸った。
——50年。
ただの一度も人前で唱えたことのない詠唱を。誰にも——グリモワルド本人にすら、見せたことのない魔法を。
初めて、声に出した。
「——天より降りて、地を灼く陽の御業よ」
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ピリカは、その声を聞いた瞬間に気づいた。
——空気が、変わった。
右手の小指の、鉄の指輪を握り込む。涙は止まらないまま、それでも、目だけは逸らさなかった。
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「昼と夜を統べる、我が友のごとき神よ」
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——ふ、と。
陽射しが、翳った。
雲ひとつ、ないのに。真昼の光が、まるで日暮れどきのように、ゆっくりと薄れ始めている。
アリサは、自分の腕に鳥肌が立つのを感じた。
夏の昼下がりのはずだった。さっきまで、陽射しが暑いくらいだった。それなのに——空気が、ひやりと冷えていく。地面が、足の裏から温度を失っていく。木々の葉ずれも、鳥の声も、あたりのざわめきぜんぶが、少しずつ、遠くなっていく。
——この魔法を、知っている。
見たことは、一度もない。でも、お祖父様から聞いたことがある。あの男のソーラーレイは、空にあるすべての太陽の光を、ただの一点に束ねる魔法だ——本来、人の身で扱えるものではない、と。
そして、ピリカの言葉も。
——お師匠様のソーラーレイは、世界から光が消えるところから始まるんだよ。
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「無数の鏡を空に掲げ、天と地を繋ぐ光の橋を架けよ」
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ベルフォード侯爵家の人々は、ただ立ち尽くしていた。
ローザが、息を呑む。アーサーが、無意識に妹の方へ手を伸ばしかけて——止めた。ミランダが、フレデリックの腕にそっと触れる。
フレデリックは、ボルトランの背中だけを見つめていた。
——東部戦線を知る男の勘が、告げていた。いま、この国の歴史を変えたのと同じ魔法が、唱えられている。
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「何も焦がさず、何も焼かず、ただ——何も残すな」
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ボルトランの額から、汗がひと筋、伝い落ちた。
杖を握る両手の、指の関節が白い。歯を食いしばり、呼吸を、深く、長く——絞り出すように吐く。詠唱のひとつひとつが、見えない巨石を積み上げていくようだった。
ピリカは、息を呑んだ。
——ボルトラン様が、こんなに必死になっている。
いつも穏やかで、何をしてもどこか余裕のあった人が。いま、身体の全部を使って——たったひとつの魔法を、支えている。
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「これは、灰の代わりの光。墓標の代わりの柱」
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風が、止まった。
空き地を囲む木々が、ぴたりと静止した。鳥が鳴き止み、虫の声が消えた。草の上の影が、すうっと薄くなっていく。
無音の世界に、ボルトランの声だけが響いていた。
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「魂を、空に還す——餞よ」
ボルトランが、目を開いた。
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——その瞬間。
世界から、光が消えた。
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太陽が、消えた。
雲ひとつなかった快晴の空が、一瞬で夜に変わった。太陽があったはずの場所だけが、薄白い円を残して、ぽかりと闇に浮かんでいる。
ピリカは、見上げた。
——間違いない。
——あの日の、あの光だ。
肌が、ひやりとした。夏の昼が、唐突に冬の夜に変わっていた。空き地の地面から、急速に熱が抜けていく。
アリサが息を呑む。ベルフォード家の誰もが、空を見上げたまま動けずにいた。
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暗闇の中で——光が、一点に集まった。
天から、グリモワルドの遺体へ。まっすぐに突き刺さるように、白光の柱が、ただ一本、落ちた。
純白の柱。空のあらゆる場所から奪われた太陽の光が、その一点にだけ、収束している。
——ソーラーレイ。
ピリカがドラゴンの森で見た、あの魔法。あの人の代名詞。あの人を、英雄と呼ばせた光。
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しかし——そこからが、違った。
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光の柱の周囲に、鏡面の壁が、地面からせり上がった。
光る壁が幾枚も伸び上がり、組み合わさり、球になっていく。グリモワルドの遺体と、降り注ぐ光の柱を、丸ごと——鏡の球が、閉じ込めた。
球が閉じた、その瞬間。
内側で、光が暴れ始めた。
球の表面が、白く脈打つ。降り注ぐ光の柱は、鏡の内壁で跳ね返り、折れ、また跳ね返り——逃げ場を失った太陽の光が、球の内側で、無限に重なり続けていた。
外には、何ひとつ漏れなかった。
熱も。光も。音も。
ただ、球体の表面だけが、心臓の鼓動のように、うっすらと白く明滅していた。
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ボルトランの両腕が、震えていた。
肩が大きく上下する。額から、こめかみから、汗が滴り落ちる。歯が、ぎり、と音を立てた。
——あの男ならば。
あの男ならば、欠伸混じりに、片手で維持しただろう。この魔法を。
ボルトランは、両手で杖を握りしめ、全身を石のように固めて、震える呼吸のひとつひとつと引き換えに——ようやく、繋ぎ止めていた。
50年分の練習の、すべてを注ぎ込んで。
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球の内側では——遺体が、消えていた。
無限に反射する太陽の光が、すべての方向から、すべての角度から、降り注ぎ続けた。
灰も。骨も。煙すらも。
——何ひとつ、残らなかった。
望んだ通りに。あの日、裏庭で笑いながら言っていた、その通りに。
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球体の明滅が、ゆっくりと弱まっていった。
ボルトランが、長く、息を吐く。
球の中で暴れていた光が、出口を見つけたように、ふっと一点に集まり——消えた。
鏡の球が、地面に溶けるように沈んで、消えた。
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最後の闇が薄れた瞬間——世界に、光が戻った。
夏の陽射しが、再び空き地に降り注いだ。風が戻り、木々が揺れ、鳥が、おそるおそる鳴いた。
空き地の草は、一本も焦げていなかった。詠唱の、言葉どおりに。
そして、その真ん中には。
——何も、残っていなかった。
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ボルトランが、その場に、静かに座り込んだ。
杖が、ことり、と音を立てて倒れた。
「……ふん。下手だと言われそうだ」
ボルトランが、笑った。
涙を流しながら、笑っていた。
——誰がやるか、と言ったが、結局は、50年かけて、やり遂げたぞ。文句があるなら、出てきて言え。
「わしは結局、生涯お前に勝てんかったが——」
一度、深く息を吐いた。
「流石のお前も、寿命には勝てんかったか」
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風が、空き地を抜けていった。
ピリカが、泣きながら空を見上げる。アリサが、その手を握る。
ボルトランも、空を見上げた。
すでにそこには何もない。柱も、球も、あの男も。ただ、澄み渡る青い空が、どこまでも広がっているだけだった。
「もう少しだけ待っておれ。我が生涯の親友よ」




