第103話 お師匠様の"真面目な"授業
その日の朝は、いつもと違った。
「ピリカ。次の魔物討伐、ついてこい」
コーヒーをすすりながら、グリモワルドが言った。
カップの中身は、先日ピリカが買ってきた、ちょっといい豆だ。——「コーヒー豆はちょっと良いやつを頼むぞ」なんて言われたのは、もう一年半も前のこと。今では、お師匠様のために街の豆屋で月に一度いい豆を選ぶのが、ピリカにとってのひそかな楽しみになっていた。
「……え?」
ピリカは、思わず聞き返した。
「美味いコーヒーも買ってもろうたしな」
理由になっているような、なっていないような。——討伐についていきたい、と頼んだことなら何度もある。大体は置いていかれた。でも、お師匠様の方から「ついてこい」と言われたのは、初めてだった。
「は、はい。行きます」
(……珍しいな。どういう風の吹き回しだろう)
「今日は、アリサはいないんですか?」
「あやつには、コーヒーの淹れ方を教えたからな」
「……?」
答えになっていない気がしたが、グリモワルドはそれ以上、何も言わなかった。
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飛んだ。
眼下を、森が流れていく。丘を越え、川を越え、深い緑の上を滑っていく。
(……懐かしいな、この感じ)
二年ほど前の、ドラゴン退治のときみたいだ。あのときは無理やりついていって、ソーラーレイを見て、腰が抜けて。
ボルトラン様からの依頼書には、今回も竜種とあった。
(晴れているし、今日もソーラーレイかな)
少しだけ、期待した。何度見ても、あの光は——世界で一番きれいで、一番怖い。
⸻
森の切れ目に、それはいた。
赤黒い鱗の巨体が、岩場に伏せて眠っている。長い首。畳まれた翼。ゆっくりと上下する、大きな胴体。地鳴りのように低い寝息が、丘の上まで届いてくる。
グリモワルドとピリカは、五百メートルほど手前の丘に降りた。
風が、草を揺らしていた。
「お師匠様、今日はどうやって——」
「見ておれ」
グリモワルドは、杖も構えなかった。手も上げなかった。詠唱もなかった。
ただ、すっ——と、ドラゴンを見つめた。
それだけだった。
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——何も、起こらなかった。
ドラゴンは、岩場に伏せたまま。首も、翼も、動かない。ただ、眠っている。
風が、草を揺らす音だけがする。
十秒。二十秒。……一分。
(……あれ? もう、何か始まってるのかな……?)
ピリカが、お師匠様とドラゴンとを、そっと見比べていると——グリモワルドが、ぽつりと言った。
「死んだの」
「…………え?」
え? だって、何も——。
ピリカは、目を凝らした。
ドラゴンは、さっきと同じ姿勢で、岩場に伏せている。眠っているのと、何ひとつ変わらないように、見える。
……でも。
さっきまで丘の上まで響いていた、あの地鳴りのような寝息が——しない。
ゆっくりと上下していた、あの大きな胴体が——止まっている。
眠っているのでは、なかった。もう、動いていないのだ。
咆哮もなかった。炎もなかった。傷ひとつ、ついていなかった。——目を覚ますことすら、なかった。
ピリカは、目の前の光景が理解できなかった。
光もない。音もない。何も、起きていない。なのに、ドラゴンが死んだ。
「な、何をしたんですか……?」
グリモワルドは、すぐには答えなかった。
指先をくいっと動かして、丘の地面から石の椅子を二つ、生やした。自分がひとつに座り、もうひとつを、ぽんと叩く。
「座れ」
「は、はい」
「—— 一酸化炭素じゃ」
そして、授業が始まった。
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「まず、空気の話からじゃ。前にも教えたが、もう一度、最初からやる」
グリモワルドは、足元から小石をいくつも浮かせて、空中に並べ始めた。
「空気は、ひとつのものではない。いくつもの種類の、目に見えん粒の混ざりものじゃ。一番多いのが窒素。次が酸素。お主が水を分解して取り出しておった、あの酸素じゃな」
「は、はい」
「生き物は、酸素を吸って生きておる。人も、犬も、ドラゴンもじゃ。——では酸素は、吸った後、身体の中をどうやって巡ると思う?」
「えっと……血、ですよね?」
「そうじゃ。血の中にはな、酸素を運ぶ小さな運び屋がおる。目には見えん、小さな小さな運び屋じゃ。そやつが肺で酸素を受け取って、身体の隅々まで届けておる」
小石のひとつが、別の小石の周りをくるくると回った。
「ここまでは、ええか」
「はい」
「うむ。続けるぞ」
⸻
「次が、本題じゃ。—— 一酸化炭素」
グリモワルドは、新しい小石をひとつ、浮かべた。
「炭素がな、酸素が足りんまま中途半端に燃えると、こやつが生まれる。色もない。匂いもない。目にも見えん。——そして、こやつは性質が悪い」
「性質が、悪い……?」
「さっきの、血の中の運び屋を思い出せ。あの運び屋はな、酸素よりも、一酸化炭素の方がずっと好きなんじゃ。比べものにならんくらいの。——酸素と一酸化炭素が両方あったら、運び屋は迷わず一酸化炭素に飛びつく」
酸素役の小石が弾かれて、新しい小石が運び屋にくっついた。
「すると、どうなる?」
「……酸素が、運ばれなくなる」
「そうじゃ。息を吸っても吸っても、身体の中は酸欠になる。起きておる者なら、頭がぼうっとして、足がもつれて、眠くなって——そのまま、眠るように死ぬ。眠っておる者なら——目を覚ますことすら、ない」
ピリカは、丘の下の巨体を見た。
眠ったまま、目を覚ますことすらなく逝ったドラゴン。傷ひとつない死。
「あやつの周りの空気にだけ、一酸化炭素を混ぜた。それだけじゃ。苦しみは、ほとんどない」
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「次は、濃度の話じゃ。どのくらい混ざると危険なのか。逆に、どのくらいなら平気なのか——ここを正確に覚えよ。一番大事なところじゃ」
授業は、続いた。
ひとつ、ひとつ。順番に。丁寧に。
ピリカが頷くまで、先に進まない。少しでも首をかしげると、別の喩えで言い直す。途中で「ここまでをお主の言葉で言うてみよ」と確認させて、合っていれば「うむ」と頷く。
(……どうしたんだろう)
ピリカは、ふと思った。
いつものお師匠様は、こうじゃない。聞けば教えてくれるけど、面倒くさそうに、結論だけぽんと投げてよこす。「ま、そういうもんじゃ」で終わらせる。詳しくは、こっちが食い下がって、やっと話してくれる。
今日は、違う。
誰も聞いていないのに、最初から、順番に、ひとつも飛ばさずに教えてくれる。
まるで——まるで、もう二度と、教えられないみたいに。
「ピリカ。聞いておるか」
「は、はい……」
「うむ。続けるぞ」
グリモワルドの声が、少しだけ掠れていた。
その横顔を見て、ピリカは気づいてしまった。
肩が、小さく上下している。額に、汗が滲んでいる。——ドラゴンを一瞬で倒した魔法のせいじゃない。あの程度、この人には呼吸と同じはずだ。
座って、話しているだけで。
お師匠様は、疲れている。
(……ああ)
(そういう、ことなんだ)
目の奥が、急に熱くなった。
⸻
グリモワルドは、気づかないふりをして続けた。
ピリカの目が赤くなっても。相槌の声が震え始めても。何も言わずに、小石を並べ替えながら、ひとつずつ、教え続けた。
風が、草を撫でていく。
やがて、ピリカの頬を、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。声を殺して、両手で口を押さえて、それでも肩が震えて。
そこで初めて、グリモワルドは手を止めた。
「おい。ちゃんと聞かんかい」
「だ、だって……お師匠さま……」
「——これがおそらく、ちゃんと教えられる最後じゃ」
静かな声だった。
「魔力が少ないお主が、きちんと自分の身を守れるようにな。最後は何にしようかと、ずっと考えておった」
ピリカは、何も言えなかった。
「一酸化炭素はな、ほんの少しの魔力で足りる。火力もいらん。派手さもいらん。空気の中の、ほんの一握りを入れ替えるだけで済む。——じゃが、正しく知っておれば、ドラゴンすら倒せる。正しく知らねば、自分が死ぬ。だから、丁寧にやった」
「…………」
「泣くのは構わんが、覚えてから泣け。——濃度の話、もう一度言うてみよ」
ピリカは、しゃくり上げながら、言った。
ひとつも、間違えなかった。
「うむ」
グリモワルドは、満足そうに頷いた。
⸻
「……これで、終いじゃ」
すべてを教え終わると、グリモワルドは小石をぱらぱらと地面に落とした。
「知識を繋げはしたが——新しく教えることは、ほとんどなかったの」
「み、みんな……お師匠様が……教えてくれたことばかりでした……」
「かっか……」
いつもの笑い声が、途中で小さくなった。肩が、ゆっくりと上下していた。
「最後に、お主にひとつ、贈り物じゃ」
グリモワルドが、懐から小さなものを取り出した。
指輪だった。
飾り気のない、鉄の指輪。——いや、よく見れば違う。縁に沿って細かな装飾が彫り込まれ、中央には、小さな紋が刻まれている。
小さな灯火と、それを包む光の円。
——私の、ロゴだ。
「ま、ただの鉄の指輪なんじゃが。——一酸化炭素を生み出すための、触媒となる。使い方は、もうお主には、説明はいらんじゃろう」
「こ、これ……」
ピリカは、指輪と、お師匠様の顔を見比べた。
「もしかして、最近よく出かけていたのは……」
「魔法で鉄の指輪は作れてもな、綺麗に作るのは、さすがに分からんかったからの。ちょっと職人に作らせておった。——思ったより面倒じゃった。2度とやらん」
「こんな時まで、そんな言い方……」
ピリカは、泣きながら笑った。
「その指輪は、ずっとつけておけ。その指輪と、お主の知識と、微量の魔力。——身を守るのには、十分なものとなろう」
「ありがとう、ございます……!」
ピリカは、右手の小指に、そっとはめた。
左手の小指には、お兄様の白金。
右手の小指には、お師匠様の鉄。
どちらも、触媒だった。どちらも——私を守るために、贈られたものだった。
「よし。家に帰るぞ」
「……はいっ!」
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帰りの空は、夕焼けだった。
二人で、茜色の空をゆっくりと飛んだ。行きよりも、少しだけ、ゆっくりと。
眼下を、森が流れていく。遠くに、丘の上の家が小さく見え始める。
「そうじゃ」
前を飛ぶグリモワルドが、振り向かずに言った。
「わしが教えたことは、全てお前の好きに使え。広めるなり、売るなり、本に書くなり、好きにせい。——どうせもう、わしには、あまり関係のないことじゃ」
「は……はい……」
それきり、グリモワルドは何も言わなかった。
ピリカは、その背中を見つめた。
夕陽を受けて飛ぶ、痩せた背中。世界で一番強くて、世界で一番面倒くさがりで——私に、世界の全部をくれた人。
忘れないように、ずっと、見つめていた。




