第101話 "みんなの台所"の誕生
夏の終わり——市場の外れに、誰も見たことがない店が開いた。
広い店内に、木の棚と、灯火と円の印の冷蔵箱が、ずらりと並ぶ。肉も、野菜も、卵も、牛乳も。パンも、チーズも、干した豆も。仕入れは市場の顔なじみたちで、看板には、女房の字でこう書いてあった。
『みんなの台所——夕飯のぜんぶ、ここで』
初日から、店は溢れた。籠ひとつ抱えて店を一周すれば、夕飯の材料が揃ってしまうのだから。
⸻
冬の入り口に生まれた冷蔵箱が、街のあちこちに住み着いて——季節は、ひとまわりした。
夏の名残の、暑い日。
ピリカはグリモワルドと二人で、王都の街を歩いていた。
工房に寄る用事のついでに、コーヒー豆を買って帰る。それだけの、なんでもない外出のはずだった。
「あ、お師匠様。あと一軒だけ、寄ってもいいですか」
「なんじゃ、まだあるのか」
「噂のお店があるんです。夕飯の材料が、ぜんぶ一軒で揃うらしくて。——今夜、シチューにするので」
「ふん。……ま、シチューなら、よかろ」
⸻
店に一歩入って——グリモワルドの足が、止まった。
「お師匠様?」
返事がない。
老魔法使いは、店の中を、ゆっくりと見回していた。棚の列。並んだ冷蔵箱。籠を提げて歩き回る客たち。呼び込みの声。
それから、何も言わずに、入り口の編み籠をひょいとひとつ取って、提げた。
「あ、その籠、持って回るんですよ。そこに好きなものを入れて、最後にまとめて——って、なんで知ってるんですか」
「……見れば分かるわい」
グリモワルドは、すたすたと棚のあいだへ入っていった。迷いのない足取りだった。初めての店のはずなのに、《《まるで、何百回も通った店みたい》》に。
⸻
籠を提げて、棚のあいだを歩く。
この感じを、グリモワルドは知っていた。
遠い、遠い——世界をひとつ隔てた向こうの、なんでもない夕暮れの記憶。仕事帰りに寄った、明るい店。籠。棚の列。夕飯の材料と、ついでのつまみ。
まさか、もう一度この感じを味わう日が来るとは、思わなかった。
「……懐かしいのう」
「え?」
「————なんでもない」
グリモワルドは、ぷいと横を向いて、棚の乾き菓子をひょいと籠に入れた。
「あっ、夕飯の材料だけって言いました!」
「わしの籠じゃ」
⸻
買い物は、あっという間だった。
棚のあいだを歩きながら、グリモワルドは——珍しく、鼻歌を歌っていた。
陽気で、ちょっと間の抜けた、へんてこな節回し。
(お師匠様の、鼻歌……!? しかも、知らない曲……)
どこの国の歌とも、つかない。少なくとも、この王都で聞いたことは、一度もない。
お肉の棚で、シチュー用の塊をひとつ。その隣の棚に、都合よく玉ねぎと人参とじゃがいもが並んでいて、ピリカは「お肉の隣に、お肉に合う野菜が置いてある……!」と唸った。仕上げに、瓶の牛乳。
それから、ピリカは、店の冷蔵箱の前で足を止めた。
蓋を、そっと開けて——閉める。すきまなく、すっ、と閉まる。縁の仕上げも、蝶番の動きも、寸分の狂いもない。
(うわぁ……お店で一日に何十回も開け閉めされる箱なのに、ぜんぜん緩んだりしてない……)
よく見れば、蓋の当たるところに、さりげなく補強まで入っている。売るときには見えない場所だ。頼んでもいないのに。
(職人さんたち、ほんとうに、すごいなぁ……)
⸻
勘定台では、恰幅のいいおかみさんが、にこにこと籠の中身を数えていた。
「はい、まいどねえ。——いいでしょう、うちの店。ぜんぶ、ピリカ式の冷蔵箱さまさまなのよ。あれが来るまでは、こんな店、やりたくてもやれなかったんだから」
「あの箱、蓋の裏とか、よーく見ると、実はすごく細かい気遣いがされてますよね!」
「あらまあ、お客さん。よく見てるのねぇ」
小柄な客は、自分のことはひとことも言わないまま、職人の腕前だけを、我がことのように自慢して帰っていった。
おかみさんは、その客が誰なのか、最後まで気づかなかった。
⸻
店を出て、少し歩いたところで。
「……ふん」
グリモワルドが、鼻を鳴らした。
「お師匠様?」
「なんでもないわい」
それきり、グリモワルドは何も言わず——代わりに、また、あの鼻歌を歌い始めた。
夕暮れの通りに、ちょっと間の抜けた、陽気な節が流れていく。
どこの国の曲なのか、ピリカは知らない。
——この世界の誰も、知らない。




