第100話 肉屋と魔法の箱
肉屋の朝は、暗いうちに始まる。
俺は、王都の市場で三代続く肉屋の、三代目だ。その朝も、まだ星の残る空の下で包丁を研いでいた。
肉屋の商売は、単純だ。朝、肉を仕入れて捌く。日が暮れるまでに、売り切る。——売り切れなければ、捨てる。
肉は、待ってくれない。夏なら一日、持てばいい方だ。だから毎日が勝負で、売れ残りの損は、ぜんぶ値段に乗せておくしかない。天気が崩れて客足の止まった日の夕方、まだ売れる肉を樽に捨てるときの、あの腹の底が冷える感じは——三代目になっても、慣れることはなかった。
親父は、捨てる肉にいちいち手を合わせる男だった。俺は、合わせない。合わせたら余計につらいと、とっくに知っているからだ。
⸻
だから、あの箱が店に来た日のことは、一生忘れない。
冬の入り口の、よく晴れた朝だった。
灯火と円の印が入った、大人の腰ほどの、分厚い箱。氷も入れずに、肉が保つ箱だという。そんな馬鹿な話があるか、と思った。だが、飛ぶ鳥を落とす勢いのピリカ・ピリーラの品だと言うから、試しに置いてみたのだ。
三日後。俺は、箱の中の肉を取り出して、匂いを嗅いで、切って、もう一度嗅いだ。
「……夢みたいだ」
その日一日、意味もなく箱の蓋を開けたり閉めたりして過ごして、女房に「子供みたいだよ」と笑われた。言い返せなかった。「肉が腐らない」という世界に、俺のほうが、まだ追いついていなかった。
それからの変化は、早かった。捨てる肉が消えた。捨てる分を見込んだ値付けが要らなくなった。値段を下げた。客が増えた。隣の魚屋も、向かいの八百屋も、次々に同じ箱を入れた。
三代続いた「その日勝負」の商売が、音もなく終わっていく。
もっとも——本当にすごいことを思いつくのは、俺ではなかったのだが。
⸻
最初に気づいたのは、女房だった。
店の箱に感動した女房は、家にも小型の冷蔵箱を入れた。肉のついでに、野菜を入れた。卵を入れた。牛乳を入れた。すると——買い物が、三日に一度で済むようになった。
「それでさ、思ったんだけど」
ある晩、女房が、夕飯の鍋をかき混ぜながら、こともなげに言った。
「うちの店に、ぜんぶ置いたらどうだい。肉も、野菜も、卵も、牛乳も」
「……はあ? 肉屋が、野菜を売るのか?」
「あんたねえ」
女房は、呆れた顔で振り返った。
「お客はね、肉が買いたいんじゃないんだよ。——夕飯が、作りたいんだ」
俺は、女房の顔を、まじまじと見た。二十年連れ添って、初めて見る顔のような、気がした。
その晩、俺は眠れなかった。
肉屋は肉を、八百屋は野菜を。そういうものだと、三代、疑ったこともなかった。だが考えてみれば——できなかっただけ、なのだ。ぜんぶ一緒に置くなんて、傷み方の違うものを並べるなんて、できるわけがなかった。
あの箱が、来るまでは。




