第99話 "熱の移動"で世界を変えるには
夏が、来た。
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ピリカ・ピリーラの店頭に、新しい品が並んだ。
見た目は、ドライヤーをひとまわり小さく、ずんぐりさせたような形。片手でちょうど握れる持ち手がついていて、顔や首すじに向けて、風を当てて使う。
『冷風機:前から、冷たい風が出ます』
札を二度見するお客様が、続出した。
「冷たい風が……出る? 氷もなしに?」
「ええ。お試しくださいませ」
ローザが、すっとスイッチを入れる。
ひやり、と。
真夏の店内に、ひと筋の涼風が流れた瞬間——お客様の目の色が、変わった。
三日で、最初の入荷分が消えた。
やがて、街では——冷風機を片手に、顔に風を当てながら歩く人と、すれ違うようになった。最初のうちは、みんなに二度見されていたその姿も、夏の盛りの頃には、すっかり見慣れた光景になっていた。
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貴族街では、もっと大きな箱が運び込まれていた。
「広間の隅に、二台。こちらとこちらに」
夏の夜会の広間を、まるごと涼しくする部屋用の大型機。
その効果は、一度の夜会で社交界を駆け巡った。
「昨晩の夜会、汗ひとつかかずに踊れましたのよ」
「あれはどちらの?」
「決まっているでしょう。——ピリカ・ピリーラよ」
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工房にて。
「親方ー、『あったかい床』の注文、貴族街からまた三件です」
——『あったかい床』。図面には『床暖房』と、それらしい名前が書いてあるのに、ピリカが工房で「あったかい床、できましたか?」と言い続けたせいで、職人たちの間ではこちらが定着してしまった。誰も言い換えないまま、いつの間にか、注文台帳の商品名まで『あったかい床』になっている。
——「ピリカ式」という呼び名も、そうだった。
誰が言い出したのかは、わからない。「魔力の少ない人でも使える、例の新しい仕組み」——そう説明するのは、いかにも長い。お客のあいだで自然に縮んで、市場を回るうちに形が決まって、いつの間にか、「ピリカ式」のひと言で通じるようになっていた。
ピリカ式ドライヤー。ピリカ式冷風機。ピリカ式あったかい床。——品物の名前ではなく、仕組みの名前。だから、なんにでも頭に付く。職人までが、図面の隅に当たり前のようにそう書き込む。本人だけが、その名を聞くたび「私の名前が、勝手に働いてる……」と、ちょっと変な顔をする。
「ピリカ式は、出せば売れるな……」
親方は、もう驚かなくなっていた。驚かなくなった代わりに、工房は本当に倍になり、職人は倍より増えた。
新しく入った職人が、先輩に小声で聞く。
「あの……噂のお嬢さんって、どんな人なんですか」
「ん? ああ——そのうち、朝一番に戸を叩いてくるよ。紙の束を抱えてな」
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秋。
貴族の屋敷の床下に、職人たちが長い管を仕込んでいく。
熱を運ぶ管。部屋の外の焚き口から、床へ。床から、足元へ。
「冬が来るのが、楽しみだ」
屋敷の主人が、施工中の床を眺めて、そう言った。
冬が楽しみ——なんて言葉を、暖炉しかなかった時代に、誰が言っただろう。
何百年ものあいだ、冬の居場所は、暖炉の前だけだった。薪を割って、運んで、くべて、灰を掃いて——それでも部屋の隅は寒いままで、廊下では、吐く息が白かった。
この屋敷の裏庭にも、毎年この時期には、冬を越すための薪が山と積まれるはずだった。——今年は、その山が、ない。薪割りの当番も、朝いちばんの火起こしも、灰の始末も、この冬からは、もう要らない。
その「当たり前」が、床下に仕込まれた管の中を熱が静かに流れるだけで、終わろうとしている。
誰も、大声では言わない。でも、確かに——ひとつの時代が、床の下から、入れ替わり始めていた。
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そして——ある朝。
とんとん、とん。
工房の戸を叩く音に、いちばん近くにいた新人が、戸を開けた。
紙の束を抱えた、小柄な女の子が、立っていた。
「おはようございます! 新しい図面、持ってきました!」
——そのうち、朝一番に戸を叩いてくるよ。紙の束を抱えてな。
先輩に言われた言葉、そのままの光景だった。新人が、ぽかんと突っ立っているあいだに、工房のあちこちから声が飛ぶ。
「お、お嬢さんだ」
「おう、お嬢さん、久しぶり!」
「あったかい床、貴族街で評判いいぞ!」
ピリカは、ぺこぺこと頭を下げながら、まっすぐ、親方の作業台へ向かっていった。
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図面を挟んで、ピリカと親方が向かい合う。
「次は、冷蔵箱なんですけど——これが、いちばん難しくて」
「ほう」
「熱を外に汲み出すのは、もうできます。でも、汲み出したそばから、外の熱がどんどん入ってきちゃうんです。これだと、魔力がずっと要る」
「ふむ。……入ってくる熱を、塞ぎたいわけだ」
「はい。だから——真空断熱と、組み合わせたいんです」
親方の眉が、ぴくりと動いた。
「……真空断熱コップの、大型版か」
「はい! 壁を二重にして、間を真空にした箱。——それなら、一度冷やした中身は、ほとんど魔力を使わずに、冷たいままにできるはずです」
親方は、腕を組んで、しばらく図面を眺めた。
コップで使った技術と、ドライヤーで生まれた技術。別々に生まれた二つが、一つの箱の中で、合流しようとしている。
「……お嬢さんの頭の中は、どうなっとるんだ」
「え? えっと、わりと、ごちゃごちゃです……?」
「だろうな」
親方は、にやりと笑って、図面を巻き取った。
「いちばん難しい、と来たか。——上等だ。職人ってのはな、お嬢さん。その言葉がいちばん好きなんだ」
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——その様子を、少し離れた作業台から眺めていた新人が、先輩に、そっと耳打ちした。
「あんな、ちっちゃい女の子が……ここにあるもの、ほとんど全部の案を、考えたんですね」
「おう。あんなちんまりした見た目だがな——この革命を、全部起こした張本人だぞ。決して、舐めた口をきくなよ」
「は、はいっ!」
釘を刺す言い方のわりに、先輩の目は、ずっと細く笑っていた。——自慢の身内の話をするとき、そういう目だった。




