第九十五話
神籍管理局東京支部へ戻ってから、三日が過ぎた。
夏はまだ続いている。
朝の庭では蝉が鳴き、記憶樹の葉が青空に揺れていた。
トワはいつものように如月珈琲で買った紙袋を提げて出勤する。
「おはようございます。」
玄関を開けると、コーヒーの香りが漂ってきた。
「おはよう、局長。」
アオイはすでに机へ向かい、届いた依頼書を整理している。
レンは窓を開け放ち、風を部屋へ通していた。
さくらは庭でホースを持ち、花壇へ水をやっている。
いつもの朝だった。
トワは書架の前で足を止める。
白紙の本をそっと取り出した。
星見町の依頼を終えてから初めて開く。
静かな期待が胸にあった。
「新しい本、できてるかな。」
ページをめくる。
一冊。
二冊。
三冊。
星見町の記録も、七海の描いた「おかえり」のポスターも、確かに綴じられている。
だが、その先は白紙だった。
何も増えていない。
「……あれ?」
トワは首をかしげた。
これまでは依頼が終わるたび、新しい本が書架へ加わっていた。
数え間違いではない。
昨日と同じ冊数。
一冊も増えていない。
その時、老人が静かに部屋へ入ってきた。
トワは本を抱えたまま振り向く。
「先生。」
「記録が増えていません。」
老人は驚かなかった。
むしろ、どこか覚悟していたような表情だった。
「見せてください。」
二人で書架を見上げる。
木漏れ日が差し込み、本の背表紙を照らしていた。
老人は一冊一冊を丁寧に指でなぞる。
やがて、小さく息を吐いた。
「……始まりましたね。」
トワの胸がざわつく。
「何がですか。」
老人はすぐには答えなかった。
代わりに、一番上の棚を見上げる。
「局長。」
「この書架には、何冊本があると思いますか。」
「え?」
「百冊くらい……でしょうか。」
老人は静かに首を横へ振る。
「違います。」
「数え切れないほどあります。」
「ですが。」
その声は、どこか寂しかった。
「本当は、もっと多かったのです。」
部屋が静まり返る。
レンも作業の手を止める。
アオイも顔を上げた。
「昔は。」
老人は空いた棚を指差した。
「ここにも。」
「ここにも。」
「そして、あそこにも本が並んでいました。」
誰も何も言えない。
確かにそこには、本を置いていたような跡が残っていた。
木の色だけが少し違う。
長い年月、本が置かれていた痕跡だった。
トワは思わず呟く。
「でも。」
「何もありません。」
老人は静かに頷いた。
「ええ。」
「なくなったことすら、忘れられていたのです。」
その一言で、背筋に冷たいものが走る。
誰かが盗んだわけではない。
火事でもない。
最初から空いていたように、誰も疑問を抱かなかった。
それ自体が異常だった。
さくらが庭から戻ってくる。
額に浮かんだ汗をぬぐいながら、不思議そうに棚を見上げた。
「……ここ。」
「寂しい。」
トワが振り向く。
「さくら?」
彼女は空いた棚をじっと見つめている。
「誰か。」
「ずっと待ってる。」
老人の表情が強張った。
「待っている……。」
さくらは目を閉じる。
静かな声で続けた。
「本じゃない。」
「人でもない。」
「もっと……。」
少し苦しそうに眉を寄せる。
「扉。」
部屋の空気が凍りつく。
トワは思わず白紙の本を開いた。
すると、これまで何も書かれていなかった最後のページに、黒いインクが一文字ずつ滲むように現れ始める。
書架は満ちた。
次は、扉を開く者を待つ。
その瞬間。
書架のどこかで、小さく「ことり」と音がした。
誰も触れていないはずの本が、一冊だけ、ゆっくりと数センチ前へ滑り出ていた。
背表紙には題名がない。
色もない。
ただ、銀色の栞だけが静かに揺れていた。
トワはそっと息をのむ。
これまで集めてきた記憶は、終着点ではなかった。
それは、第零書架へ続く扉を開くための鍵だったのである。




