↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
96/113

第九十六話

部屋には、静寂だけが満ちていた。


 書架から少しだけ飛び出した銀色の本。


 誰も手を伸ばそうとしない。


 伸ばせなかった。


 まるで、その一冊だけが部屋の空気を変えてしまったようだった。


 トワは、ごくりと唾を飲み込む。


「これが……。」


 老人は静かに頷く。


「ええ。」


「初めて姿を現しました。」


 レンが一歩前へ出る。


「開くぞ。」


 そう言って本へ手を伸ばす。


 しかし。


 指先が表紙に触れる寸前で、ぴたりと止まった。


「……動かない。」


 まるで目に見えない壁があるようだった。


 どれだけ力を入れても、あと一センチが届かない。


 アオイも試してみる。


 同じだった。


 さくらも、スズも。


 誰一人として、本に触れることができない。


 最後にトワが前へ出た。


 不思議と恐怖はなかった。


 ただ、胸の奥が少しだけ温かい。


「失礼します。」


 小さく呟き、手を伸ばく。


 今度は指先が表紙に触れた。


 ひんやりとした木肌のような感触。


 次の瞬間だった。


 部屋中に、柔らかな鈴の音が響いた。


 りん――。


 りん――。


 夏風に風鈴が揺れるような、澄んだ音。


 銀色の本は、ゆっくりとひとりでに開いた。


 しかし、中には文字が一つもない。


 真っ白なページが続いているだけだった。


 トワは拍子抜けしたように首をかしげる。


「白紙……?」


 老人は静かに首を振る。


「いいえ。」


「局長には、まだ読めないのです。」


 その言葉と同時に。


 ページの奥から、淡い光が漏れ始めた。


 光は本の中だけに収まらず、床へ流れ出す。


 まるで一筋の川のように。


 光は書架の前で止まり、ゆっくりと円を描いた。


 誰も息をしない。


 いや、できなかった。


 床板が淡く輝き始める。


 幾何学模様ではない。


 それは無数の文字だった。


 世界中の言葉。


 古い文字。


 今は誰も使わない文字。


 まだ生まれていない文字。


 それらが輪になり、静かに巡っている。


 さくらが、小さく呟いた。


「……名前。」


「全部、名前。」


 老人の瞳が揺れる。


「そうですか。」


「やはり。」


 光の輪の中心に、小さな木目が現れた。


 床板だったはずの場所が、音もなく左右へ分かれていく。


 ギィ……。


 古い木が鳴くような音。


 その下から現れたのは、螺旋階段だった。


 地下へ続いている。


 灯りはない。


 それでも暗くはなかった。


 壁そのものが、月明かりのような淡い光を放っている。


 レンが思わず身を乗り出す。


「地下室なんてあったのか。」


 アオイが図面を広げる。


「ありません。」


「この建物の設計図には、地下は存在しません。」


 老人は長い間、その階段を見つめていた。


 やがて静かに口を開く。


「私も……。」


「見るのは初めてです。」


 その一言に、全員が息を呑んだ。


 トワは驚きを隠せない。


「先生でも?」


「ええ。」


 老人は微笑む。


「私は代々、この場所を守ってきただけです。」


「第零書架へ入った者ではありません。」


 誰も階段を下りようとはしなかった。


 その代わり、白紙だった銀色の本に、一行だけ文字が浮かび上がる。


第一の問い。


 少し間を置いて、次の文字。


あなたは、忘れられたものを救いたいのですか。


 さらに、もう一行。


それとも、忘れられたくないのですか。


 トワは、その言葉から目を離せなかった。


 問いは、誰かに向けられたものではない。


 自分自身の心の奥へ、静かに差し出されたものだった。


 階段の下から吹き上がる風が、記憶樹の葉を揺らす。


 さらさら、と優しい音が部屋に響く。


 まるで、「答えを急がなくていい」と語りかけるように。


 トワは一歩だけ、階段へ近づいた。


 その先に待つものが何であれ、もう後戻りはできない。


 それでも、その足取りは不思議なほど穏やかだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。