第九十五話
翌朝。
神社の石段は、朝露に濡れていた。
提灯の火は消えている。
けれど、昨夜のぬくもりだけが、まだ紙の中に残っているようだった。
源蔵はいつものように石段を掃き始める。
さら、さら。
竹ぼうきの音が、静かな山へ溶けていく。
その隣で、トワも箒を動かした。
「局長さん。」
源蔵が笑う。
「掃除が上手くなったな。」
「少しだけです。」
「いや。」
「続ける人は、みんな上手になる。」
その言葉に、トワは小さく笑った。
社務所では、七海が完成したポスターを筒へしまっていた。
帰る準備だった。
スケッチバッグは来たときより少しだけ重い。
絵が増えたからではない。
胸の中に持ち帰るものが増えたからだった。
さくらが駆け寄る。
「また来る?」
七海は迷わず答えた。
「うん。」
「今度は仕事じゃなくて。」
「帰ってくる。」
その言葉を聞いた源蔵は、湯のみを置いて笑った。
「約束じゃな。」
「はい。」
七海も笑う。
「約束です。」
老人は鳥居の前に立ち、静かに目を閉じた。
夏風が白髪を揺らしていく。
「局長。」
トワが振り返る。
「見てください。」
老人が指差したのは、社殿の脇に立つ一本の木だった。
若い楓。
昨日までは、ただの木だと思っていた。
しかし今は違う。
枝先に、小さな新芽がいくつも顔を出している。
「昨日は……。」
「ありませんでした。」
アオイが驚く。
老人は静かに頷く。
「ありますよ。」
「人がもう一度歩き始めた場所では。」
「自然も、それを知っています。」
そのとき。
白紙の本が、最後の一度だけ開いた。
文字はゆっくりと浮かび上がる。
依頼番号004
完了
続いて、これまでで最も長い文章が現れた。
祭りは開催されなかった。
花火も上がらなかった。
けれど、一人が「ただいま」と言い、
一人が「おかえり」と迎えた。
その日、星見町は世界から消えずにすんだ。
ページの最後には、小さく一輪の提灯の絵が添えられていた。
トワは静かに本を閉じる。
「終わったね。」
レンは首を横に振った。
「いや。」
「始まったんだ。」
その視線の先では、小学生たちが昨日吊るした提灯を見上げていた。
「来年も灯そうよ。」
「うん。」
「もっと作ろう。」
そんな声が風に乗って聞こえてくる。
帰りの車。
山道を下りながら、誰もすぐには口を開かなかった。
窓の外では、緑の稲が夏風に揺れている。
やがてスズが、ぽつりとつぶやいた。
「依頼人は……。」
「町そのものだったんですね。」
老人は優しく笑う。
「ええ。」
「そして依頼を出したのは。」
少し間を置く。
「この町を忘れたくなかった、たくさんの人たちです。」
その夜。
神籍管理局へ戻ったトワは、白紙の本を書架へ戻そうとして足を止めた。
表紙が少しだけ厚くなっている。
不思議に思って開いてみると、最後のページに一枚だけ、新しい紙が綴じられていた。
それは、本ではなかった。
星見町の祭りのポスターだった。
七海が描いた『おかえり』。
白紙の本は、その絵を「記録」としてではなく、「未来へ残す約束」として受け取ったのだ。
老人はそのポスターを静かに見つめ、穏やかに微笑んだ。
「記憶樹は、本だけを実らせるわけではありません。」
「時には、一枚の絵も。」
「一通の手紙も。」
「一つの歌も。」
「未来へ託された想いなら、すべて受け止めます。」
トワは書架へ本を戻し、小さく頷いた。
神籍管理局の仕事は、忘れられたものを取り戻すことではない。
誰かが大切にした想いを、次の誰かへ手渡していくこと。
その答えが、また一つ胸に刻まれた。




