第八十六話
翌朝。
神籍管理局東京支部の車は、まだ人通りの少ない街を静かに走っていた。
助手席には老人。
後部座席にはトワ、レン、さくら、アオイ、スズが並んでいる。
車内にはラジオが小さく流れていた。
天気予報。
渋滞情報。
そして祭りの話題。
「各地で夏祭りが始まっています──」
その声を聞いたトワは、ふと尋ねた。
「星見町のお祭りも、昔は有名だったんですか?」
ラジオはそのまま続く。
星見町という名前は、一度も出てこなかった。
老人は静かに窓の外を見ている。
「もう。」
「誰も思い出せないのでしょう。」
二時間ほど車を走らせた頃だった。
老人が前を指さす。
「ここで降りましょう。」
そこは山あいの小さな道だった。
駐車場もない。
観光案内板もない。
ただ一本の古い石畳が、森の奥へ続いている。
「本当に、この先なんですか?」
トワが尋ねる。
老人は小さくうなずいた。
「昔は、この道を子どもたちが浴衣姿で歩いていました。」
「笑いながら。」
「りんご飴を持って。」
今は、蝉の声しか聞こえない。
一行は石畳を歩き始めた。
木漏れ日が揺れる。
風が吹くたび、葉がさらさらと鳴る。
しばらく歩くと、小さな鳥居が見えてきた。
赤い塗装はほとんど剥がれ、苔がびっしりと付いている。
鳥居の脇には石碑が立っていた。
しかし。
「読めない……。」
さくらが首をかしげる。
文字は刻まれている。
なのに、意味として頭に入ってこない。
まるで、見えているのに理解できない夢のようだった。
アオイが手帳を取り出す。
「記録します。」
石碑を写生しようと鉛筆を動かす。
だが、紙の上には石碑だけが描かれ、文字の部分だけが真っ白になってしまう。
「そんな……。」
何度描いても同じだった。
レンが石碑へ手を置く。
冷たい。
確かに存在している。
それなのに。
「名前だけが、抜け落ちてる。」
その時。
トワの持つ白紙の本が、淡く光り始めた。
一枚のページが自然に開く。
記憶地点 星見町
消失率 二一%
昨日より増えている。
誰も何もしていないのに。
町は今も、静かに忘れられている。
「急がないと。」
トワがつぶやく。
老人は静かに首を振った。
「急ぐだけでは届きません。」
「忘れられた場所は。」
「思い出そうとする心でしか見つけられないのです。」
その時だった。
さくらが道の脇で足を止めた。
「……あれ。」
草に埋もれた小さな石段を見つめている。
「誰か、ここを歩いてる。」
トワが近づく。
もちろん、人影はない。
「見えるの?」
さくらはゆっくりとうなずく。
「浴衣の女の子。」
「赤い金魚の巾着を持ってる。」
老人の瞳が大きく開かれた。
「赤い金魚……。」
「昔、この町で子どもたちに配られていた祭り袋です。」
誰も、そのことを話してはいない。
それなのに、さくらは知っていた。
風が吹く。
草が左右へ分かれ、隠れていた石段が最後まで姿を現した。
石段の先には、小さな神社がある。
境内には誰もいない。
提灯もない。
屋台もない。
けれど。
トワは、ふと耳を澄ませた。
風の音に混じって。
ほんの一瞬だけ。
子どもたちの笑い声が聞こえた気がした。
老人は鳥居の前で静かに一礼する。
「……まだ待っていてくれたのですね。」
その声は、この町への挨拶でもあり、長い年月を越えて再びここへ帰ってきた者の帰郷の言葉でもあった。
白紙の本に、新しい一文が浮かび上がる。
町は、人を待っている。
人もまた、帰る場所を待っている。
トワは鳥居を見上げた。
ここには、まだ終わっていない物語が眠っている。
そして、その物語を思い出せるのは、きっと今この場所へたどり着いた自分たちだけなのだ。




