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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

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第八十七話

鳥居をくぐると、空気が変わった。


 蝉の声は聞こえている。


 風も吹いている。


 けれど、どこか音が遠い。


 まるで、町全体が深い昼寝をしているようだった。


 石畳の先に、小さな境内が広がる。


 社殿は質素だが、丁寧に掃き清められていた。


「誰かが手入れをしてる……。」


 トワがそう呟くと、レンはしゃがみ込み、砂の上を指でなぞった。


「足跡がある。」


 新しい。


 今朝のものかもしれない。


 それも一人分だけだった。


「こんにちは。」


 トワが声を掛ける。


 返事はない。


 しばらくすると、社殿の裏から箒を持った老人が姿を現した。


 背筋は少し曲がっている。


 白い作務衣に麦わら帽子。


 日に焼けた穏やかな顔だった。


「珍しいなぁ。」


 老人は柔らかく笑う。


「ここまで来る人なんて、何年ぶりだろう。」


「こちらの神社を守っていらっしゃるんですか?」


 老人は照れくさそうに頭をかく。


「守るなんて立派なもんじゃないよ。」


「誰もやらなくなったから、わしが掃除してるだけさ。」


 そう言って、箒を社殿の柱へ立て掛けた。


 老人は自分を志村源蔵と名乗った。


 八十二歳。


 この町で生まれ、この町で育ったという。


 縁側へ案内され、冷たい麦茶をいただく。


 庭には朝顔が咲き、小さな風鈴が静かに揺れている。


 どこにでもありそうな夏の午後。


 それなのに、胸が締めつけられるほど懐かしかった。


「昔は賑やかだった。」


 源蔵は境内を見渡す。


「祭りの日には、この石段が人でいっぱいになってな。」


「子どもは走り回って。」


「若い衆は神輿を担いで。」


「夜になれば、祭り囃子が山まで響いた。」


 少し笑う。


「太鼓がうるさくて眠れん、なんて文句も出たもんだ。」


 その笑顔が、ふっと静かになる。


「でも。」


「子どもが町を出ていった。」


「仕事も減った。」


「学校も閉校になった。」


「祭りを続ける人がおらんようになってな。」


 誰も口を挟まなかった。


 これは特別な出来事ではない。


 日本のどこにでもある、小さな町の現実だった。


「去年。」


 源蔵はゆっくりと言葉を続ける。


「最後の実行委員会を開いたんだ。」


「出席したのは、四人だけだった。」


 麦茶の氷が、からりと音を立てる。


「『もう終わりにしましょう』って。」


「みんな、そう言った。」


「反対する理由もなかった。」


 トワは境内を見渡した。


 古びた提灯。


 しまわれた太鼓。


 倉庫の奥に積まれた木箱。


 どれも、今にも誰かが使い始めそうなのに、静かに時を止めている。


 そのとき、さくらが倉庫の前で立ち止まった。


「……音。」


「え?」


「聞こえる。」


 耳を澄ます。


「太鼓。」


「笛。」


「笑ってる。」


 源蔵が驚いたように立ち上がる。


「まだ……聞こえるのか。」


 さくらは目を閉じる。


 その表情は穏やかだった。


「楽しそう。」


「みんな笑ってる。」


「赤ちゃんも。」


「おじいちゃんも。」


「一緒に踊ってる。」


 源蔵の目に涙が浮かぶ。


「そうだった。」


「うちの祭りは。」


「誰でも輪に入れる祭りだった。」


「旅の人でも。」


「引っ越してきた人でも。」


「子どもでも。」


「年寄りでも。」


「最後はみんなで踊るんだ。」


 老人は静かに笑った。


「それが自慢だった。」


 その瞬間だった。


 トワの白紙の本が開く。


 新しい文字が、ゆっくりと刻まれていく。


消失理由 判明


人が減ったからではない。


「もう続けなくていい」と、誰もが自分に言い聞かせてしまったから。


 トワはその一文を見つめた。


 祭りは、人数だけでは続かない。


 「続けたい」と思う心が、少しずつ諦めへ変わってしまった。


 それが、この町の本当の痛みだった。


 夕暮れ。


 境内に長い影が伸びる。


 風が吹く。


 どこからともなく、かすかな笛の音が聞こえた。


 今度はトワにも聞こえた気がした。


 幻だったのかもしれない。


 けれど源蔵は、空を見上げて微笑む。


「……待っとるんじゃな。」


「祭りも。」


「この町も。」


 誰かがもう一度、「帰ってきたよ」と言ってくれる日を。

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