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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

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第八十四話

翌朝。


 神籍管理局の中庭は、昨夜の出来事が嘘だったかのように静かだった。


 若い桜の葉は朝日に照らされ、露をまとって輝いている。


 さくらは、いつものように花壇へ水をやっていた。


 ジョウロから流れる水が土へ染み込み、草花が小さく揺れる。


「おはよう。」


 トワが声を掛ける。


 さくらは振り返り、穏やかに笑った。


「おはよう。」


 その笑顔はいつもと変わらない。


 けれど、どこか吹っ切れたようにも見えた。


「昨夜のこと、覚えてる?」


 トワが尋ねると、さくらは少し考えてからうなずく。


「全部じゃないけど。」


「『さくら』っていう名前が、本当だったことは分かった。」


 それだけでも、十分だった。


 自分の名前を信じられるようになった。


 それは、この子にとって大きな一歩だった。


 局長室では、語り部の老人が一枚の古い地図を机に広げていた。


 羊皮紙に描かれたその地図には、大陸も国境もない。


 代わりに、いくつもの光る点が描かれている。


「これは……。」


 アオイが目を細める。


「場所ではありません。」


 老人は静かに答えた。


「記憶が強く息づく場所です。」


 地図には、小さな文字が添えられていた。


 約束の丘。


 始まりの港。


 祈りの森。


 帰郷の橋。


 どれも、普通の地図には載っていない名前だった。


 トワはその一つひとつを見つめる。


「実在するんですか?」


「実在します。」


 老人はうなずく。


「ですが、地図では辿り着けません。」


「人の心が、その場所を覚えている間だけ存在するのです。」


 レンが腕を組む。


「つまり。」


「誰も覚えていなくなれば?」


 老人は少し寂しそうに微笑んだ。


「消えます。」


 部屋が静まり返る。


「建物が壊れるわけではありません。」


「土地がなくなるわけでもありません。」


「ただ。」


「その場所に込められていた意味が、世界から静かに失われるのです。」


 その言葉を聞いたトワの胸に、一つの光景が浮かんだ。


 恒一が毎年訪れていた桜並木。


 ゆうとが父との約束を胸に見上げた夜空。


 雨宮が三十年間抱えていた一通の手紙。


 どれも、人の記憶があるから特別な場所になっていた。


 アオイが白紙の本を開く。


 新しい文字が現れる。


世界は、石や木だけでできているのではない。


 続けて、もう一行。


人が意味を託した場所もまた、世界の一部である。


 老人はその文章を見て、静かにうなずいた。


「記憶樹が守っているのは、人だけではありません。」


「人が大切だと思った時間。」


「人が大切だと思った場所。」


「人が大切だと思った約束。」


「それらすべてが、記憶樹の養分になるのです。」


 そのとき。


 中庭から、ゆうとの笑い声が聞こえた。


「さくらさん!」


「見て!」


 夏休みの自由研究らしい。


 小さな鉢植えを抱えて走ってくる。


「ひまわり!」


「学校で育ててるんだ。」


 さくらはしゃがみ込み、葉を優しく撫でた。


「大きくなったね。」


「毎日、水をあげてるから!」


 その何気ない会話を見ながら、老人は静かにつぶやく。


「これも。」


「記憶樹の種になります。」


 トワは驚いて振り返る。


「こんな日常も?」


「ええ。」


 老人は微笑んだ。


「大きな英雄譚だけではありません。」


「誰かが誰かを思って水をやる。」


「一緒に笑う。」


「名前を呼ぶ。」


「おかえり、と迎える。」


「そういう一日一日が、世界を支えているのです。」


 トワは窓の外を見る。


 神籍管理局は、今日も穏やかだった。


 依頼がなくても、人が笑っている。


 花が咲いている。


 誰かが誰かを気遣っている。


 その当たり前が、どれほど尊いものなのか。


 トワは少しずつ理解し始めていた。


 その日の夕暮れ。


 白紙の本には、新しいページが静かに綴られた。


大きな奇跡は、めったに起こらない。


だからこそ、小さな優しさが世界を支えている。


 トワは本を閉じ、そっと中庭へ目を向ける。


 夕日に照らされた若い桜の木の下で、さくらとゆうとが笑い合っていた。


 その何気ない光景こそが、この世界の未来を育てているのだと、トワは静かに感じていた。

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