第八十三話
夜。
神籍管理局東京支部は、昼間の賑わいが嘘のように静かだった。
廊下を照らす灯りは控えめで、窓の外には夏の月が浮かんでいる。
トワは眠れずに、中庭へ出た。
若い桜の木が、月明かりを浴びて銀色に見える。
「……きれい。」
小さく呟いた、その時だった。
「眠れませんか。」
振り返ると、語り部の老人が縁側に座っていた。
湯のみからは、ほのかに湯気が立っている。
「少しだけ。」
トワも縁側へ腰を下ろした。
二人の間を、夜風が通り抜けていく。
しばらく沈黙が続いたあと、老人が静かに口を開いた。
「局長。」
「あなたは、『神籍』という言葉の意味を考えたことがありますか。」
トワは首をかしげる。
「神様の戸籍……みたいなものだと。」
老人は小さく笑った。
「多くの人が、そう考えます。」
「ですが、本来の意味は少し違います。」
老人は桜を見つめたまま続ける。
「神籍とは。」
「神を登録する帳簿ではありません。」
「誰かが、誰かを忘れなかった証なのです。」
トワは息をのんだ。
「神になるとは。」
「永遠に生きることではありません。」
「たくさんの人に祈られることでもありません。」
「誰か一人の人生を照らし続けた存在が、神籍へ迎えられる。」
老人の声は、静かだった。
「だから神籍管理局は。」
「神を管理しているのではない。」
「人と人との繋がりが消えないように守っている。」
トワは、これまで出会った人々を思い浮かべた。
恒一と美咲。
ゆうとと父。
雨宮と届けられなかった手紙。
どの依頼も、「忘れないこと」が中心にあった。
今、その理由が少しだけ分かった気がした。
その時だった。
中庭から、小さな足音が聞こえる。
「トワ……?」
寝間着姿のさくらだった。
眠そうに目をこすりながら歩いてくる。
「起きちゃった?」
「……うん。」
さくらは桜の木を見上げる。
風が吹く。
葉がさらさらと揺れる。
その音を聞いた瞬間だった。
さくらの表情が変わる。
まるで、遠くから誰かの声が聞こえたように。
「……呼んでる。」
トワは立ち上がる。
「誰が?」
さくらは桜の幹へ、ゆっくり手を伸ばした。
「この木。」
「この木が。」
そっと幹に触れる。
瞬間。
若い桜の木全体が淡く光り始めた。
葉が一枚。
また一枚。
夜空へ舞い上がる。
しかし、その葉は地面へ落ちない。
光になって消えていく。
老人は驚いた表情で立ち上がった。
「記憶樹が……共鳴している。」
トワはさくらの肩へ手を置く。
「さくら!」
彼女はゆっくり目を開けた。
その瞳には涙が浮かんでいる。
「思い出した。」
静かな声だった。
「全部じゃない。」
「でも、一つだけ。」
トワは息を止める。
さくらは胸へ手を当てた。
「『さくら』は。」
「仮の名前じゃなかった。」
月明かりの中で、小さく微笑む。
「私。」
「本当に、さくらだった。」
トワは思わず笑顔になる。
「そうだったんだ。」
けれど。
老人は、さくらの次の言葉を待っていた。
さくらは桜の幹を優しく撫でる。
「でも。」
「誰かが。」
「私のことを、ずっと『さくら』って呼んでくれてた。」
「その人の名前が……。」
苦しそうに目を閉じる。
「思い出せない。」
その瞬間。
白紙の本がひとりでに開いた。
ページいっぱいに、たった一行だけ文字が浮かぶ。
名前とは、呼ぶ者と呼ばれる者、二人で完成する。
誰もその意味をすぐには理解できなかった。
けれど老人だけは、静かに空を見上げていた。
「そういうことでしたか……。」
小さく呟く。
「第零書架は。」
「本を探す場所ではない。」
トワが振り向く。
「え?」
老人は優しく微笑んだ。
「忘れられた『名前』を、迎えに行く場所なのですね。」
夜風が吹く。
桜の葉がさらさらと鳴る。
その音は、誰かが遠くで優しく名前を呼んでいるようにも聞こえた。




