第百八十一話
応接室には、夏の風が静かに吹き込んでいた。
窓辺の風鈴が、小さく澄んだ音を響かせる。
語り部の老人は、その音に耳を澄ませるように目を細めた。
「……この音も、変わりませんね。」
トワは湯のみを差し出す。
「昔も、こんな風鈴が?」
老人は笑う。
「いいえ。」
「風鈴は違いました。」
「けれど。」
「風は、昔も今も同じです。」
その言葉に、トワは少しだけ肩の力を抜いた。
この人は、過去を懐かしむために来たのではない。
過去から未来へ、何かを手渡しに来たのだ。
老人は机の上の白紙の本へ視線を向けた。
「その本を、開いていただけますか。」
トワが表紙に触れる。
本は自然に開き、白いページが現れた。
老人は一枚だけページをめくる。
「局長。」
「あなたは、この本が何だと思っていますか。」
トワは少し考えた。
「神籍管理局の記録……でしょうか。」
老人は首を横に振る。
「半分だけ、正しい。」
「では……。」
「世界の記憶?」
「それも違います。」
老人は優しく微笑んだ。
「この本は。」
そっとページを撫でる。
「誰かの人生が、『ありがとう』と言われた瞬間に生まれる本です。」
誰も声を出さなかった。
静かな沈黙だけが部屋を満たす。
「人生は、誰にも記録されないまま終わることもあります。」
「ですが。」
「誰かの心に残った人生だけは。」
「記憶樹が、一冊の本として受け取ります。」
さくらが小さく尋ねる。
「じゃあ……。」
「悪い人は?」
老人は少し考えてから答えた。
「善い人か、悪い人か。」
「記憶樹は、それでは量りません。」
「誰かを本気で愛したか。」
「誰かに愛されたか。」
「誰かの人生を少しでも変えたか。」
「その時間を受け取るのです。」
トワは、これまで出会ってきた依頼人たちを思い浮かべた。
樹巫女。
恒一。
ゆうと。
雨宮。
みんな、誰かの人生を変えていた。
だから、本になったのだ。
老人は木箱から、小さな種を取り出した。
木の実ほどの大きさ。
透明な琥珀色をしている。
その中心には、小さな光が揺れていた。
「これは……。」
スズが息をのむ。
「記憶の種です。」
老人は掌に乗せたまま言った。
「一冊の本が生まれるたび。」
「記憶樹には、新しい実がなります。」
「その実が熟すと、この種になります。」
トワは種を見つめた。
「植えるんですか?」
老人は静かにうなずく。
「ええ。」
「ですが。」
「土に植えるのではありません。」
そう言って、老人は種を白紙の本の上へ置いた。
種は音もなく溶けるように消えた。
その瞬間。
白紙だった一ページに、淡い金色の葉が一枚だけ描かれる。
葉脈まで細かく、美しい。
アオイが思わず立ち上がる。
「新しい……記録。」
老人は首を横に振る。
「いいえ。」
「これは記録ではありません。」
「未来に芽吹く場所です。」
そのとき。
中庭から子どもたちの笑い声が聞こえた。
ゆうとがさくらへ紙飛行機を飛ばしている。
紙飛行機は風に乗り、桜の若葉へ引っ掛かった。
それを見た老人は、穏やかに笑う。
「局長。」
「あなたは、依頼を解決していると思っていますね。」
トワは少し照れながらうなずいた。
「はい。」
老人はゆっくり首を横に振る。
「違います。」
「あなたは。」
窓の外の二人へ目を向ける。
「次の物語が生まれる土を耕しているのです。」
トワも中庭を見る。
笑い合う二人。
風に揺れる若い桜。
神籍管理局。
ここは、終わった人生をしまう場所ではない。
これから始まる人生が、安心して歩き出せる場所なのだ。
そのことを、トワは初めて心の底から理解した。
その夜。
白紙の本に、静かに新しい一文が記された。
神籍管理局とは、記憶を守る場所ではない。
未来へ受け継がれる想いを育てる庭である。
トワはその一文を何度も読み返し、静かに本を閉じた。
窓の外では、夏の夜風が若い桜を優しく揺らしていた。




