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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

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第八十話

梅雨が明けた朝。


 東京支部の庭では、蝉が今年初めて大きく鳴いていた。


 朝日に照らされた若い桜の葉が、風に揺れる。


 さくらは、じょうろで花壇に水をやっていた。


「暑くなったね。」


 額の汗を拭う。


 紫陽花の季節は終わり、花壇には向日葵が咲き始めていた。


 そのときだった。


 風が、不思議な匂いを運んできた。


 土でもない。


 花でもない。


 どこか懐かしい――古い本の香り。


 さくらは顔を上げる。


 門の前に、一人の老人が立っていた。


 白い麻の羽織。


 長い杖。


 背中には、小さな木箱を背負っている。


 髪も髭も雪のように白い。


 それなのに、その瞳だけは少年のように澄んでいた。


 老人は門の桜を見上げ、小さく微笑む。


「……育ったか。」


 その一言には、何十年、いや何百年もの時間が込められているようだった。


「こんにちは!」


 さくらが声を掛ける。


 老人は穏やかに頭を下げた。


「おはようございます。」


「ここが、神籍管理局ですね。」


「はい!」


「ご用件ですか?」


 老人は少し考えてから笑った。


「依頼ではありません。」


「約束を果たしに来ました。」



 応接室。


 トワたちは老人を迎えていた。


 湯のみから立ち上る煎茶の香り。


 老人は一口飲むと、嬉しそうに目を細めた。


「いいお茶です。」


「ありがとうございます。」


 トワは少し緊張していた。


 老人からは、不思議な気配を感じる。


 神でもない。


 人でもない。


 けれど、そのどちらでもあるような。


「私は、神崎トワです。」


「神籍管理局東京支部の局長をしています。」


 老人はゆっくりとうなずいた。


「知っています。」


「あなたが、新しい神籍の主ですね。」


 部屋の空気が変わる。


 レンが静かに立ち上がる。


「誰だ。」


 老人は笑った。


「名前なら、昔はありました。」


「ですが、長く呼ばれないうちに忘れてしまいました。」


 さくらが目を丸くする。


「名前を忘れるの?」


「忘れます。」


 老人は少し寂しそうに笑った。


「人は、自分の名前を忘れません。」


「けれど。」


「世界は、ときどき誰かの名前を忘れてしまうのです。」


 その言葉に、さくらは自分の胸へ手を当てた。


 名前を失っていた自分。


 その記憶が、少しだけ疼く。



 老人は背負っていた木箱を机へ置いた。


 留め金を外す。


 中から現れたのは、一冊の古い本だった。


 革の表紙。


 ところどころ擦り切れている。


 しかし、不思議なことに。


 白紙の本と同じ紋様――一本の大樹が刻まれていた。


 アオイが息をのむ。


「同じ……。」


 老人は静かにうなずいた。


「これは。」


「記憶樹から生まれた本です。」


 トワは思わず身を乗り出した。


「記憶樹を知っているんですか?」


「知っていますとも。」


 老人は本を優しく撫でる。


「芽吹いた日も。」


「最初の葉が開いた日も。」


「すべて、この目で見てきました。」


 部屋が静まり返る。


 レンが低く尋ねる。


「……何歳なんだ。」


 老人は困ったように笑った。


「数えるのをやめてしまいました。」


「千年は、過ぎていると思います。」


 誰も言葉を失う。


 その沈黙を破ったのは、白紙の本だった。


 机の上で、ひとりでにページが開く。


 光が走る。


 そして、今までで最もはっきりとした文字が現れた。


語り部を迎えよ。


記憶樹への道を知る者である。


 老人はその文字を見て、静かに目を閉じた。


「……ようやく。」


「私の役目も、終わる時が来たようです。」


 窓の外では、夏の風が若い桜を揺らしていた。


 世界は静かに、次の物語へと歩き始める。

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