第七十八話
翌朝。
神籍管理局東京支部の記録室。
白紙の本は静かに机の上に置かれていた。
アオイは昨夜から何度もページをめくっている。
「やっぱり……。」
スズが隣から覗き込む。
「変化はありましたか?」
アオイはゆっくりとうなずいた。
「昨夜は『継続中』だけでした。」
「ですが、今朝になって文字が増えています。」
トワたちも本の周りに集まる。
新しく現れた一文は、短かった。
未配達は、手紙だけではない。
レンが眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
トワはしばらく考え込んだ。
「雨宮さんが届けられなかったのは、手紙だけじゃない……?」
その言葉に、さくらが小さく反応した。
「気持ち……かな。」
全員の視線がさくらへ向く。
彼女は少し照れながら続けた。
「三十年間ずっと、『届けられなかった』って思ってきた。」
「その気持ちも、ずっと雨宮さんの中に残ってた。」
アオイは静かに本を閉じた。
「……その可能性があります。」
◇
午後。
トワたちは再び雨宮の家を訪れた。
小さな平屋の玄関先には、色とりどりの鉢植えが並んでいる。
「また来てくださったんですね。」
雨宮は少し驚きながらも、穏やかに迎えてくれた。
居間へ通されると、壁一面に古い写真が飾られていた。
配達用の赤いバイク。
雪の日。
夏祭り。
入学式の日に笑う子どもたち。
地域の人々と一緒に写る雨宮。
「全部、配達の途中で撮った写真なんです。」
雨宮は懐かしそうに目を細めた。
「手紙を届けるたびに、人の暮らしにも出会いました。」
トワは一枚の写真の前で足を止める。
そこには、若い女性が笑顔で郵便を受け取っている姿が写っていた。
「この方は?」
雨宮は写真を見つめた。
「朝倉千鶴さんです。」
部屋が静まり返る。
「この写真……。」
「修一さんへの手紙を毎日のように出していた頃です。」
千鶴は、封筒を胸に抱えながら笑っていた。
その笑顔は、未来を信じている人の笑顔だった。
◇
写真立ての横に、小さな木箱が置かれていた。
「これは?」
トワが尋ねると、雨宮は照れくさそうに笑った。
「退職するときにもらった寄せ書きです。」
箱を開ける。
中には、何十枚もの小さな手紙が丁寧にしまわれていた。
「いつも笑顔をありがとう。」
「雨の日も雪の日も、本当にお疲れさまでした。」
「あなたが届けてくれた手紙で、人生が変わりました。」
一枚一枚、違う字。
違う紙。
でも、どれも温かい。
雨宮は少し恥ずかしそうに笑った。
「退職した日にいただいたんですが……。」
「読むたびに照れくさくて。」
「全部は読めていないんです。」
トワは静かに木箱を閉じた。
そして、優しく言った。
「雨宮さん。」
「あなたは三十年間、一通の手紙を届けられなかったと思っていた。」
「でも。」
「三十年間で、何万通もの手紙を届けてきたんですよね。」
雨宮は黙ったまま、うなずく。
「その一通は、確かに心残りです。」
「でも、それだけで三十年の仕事が消えてしまうことはありません。」
「あなたが届けてきた想いは、こんなにたくさん残っています。」
雨宮の視線が、寄せ書きへ向かう。
一枚の紙を手に取る。
震える指で開く。
『あなたが届けてくれた父からの手紙は、今も私の宝物です。』
雨宮は、静かに目を閉じた。
頬を、一筋の涙が流れる。
「そうか……。」
「私は、ちゃんと届けられていたんですね。」
その夜。
神籍管理局へ戻ると、白紙の本に新しい文字が浮かび上がっていた。
依頼番号003
完了
『人は、一つの後悔だけで人生を量ることはできない。
積み重ねた優しさは、誰かの記憶の中で生き続ける。』
トワは静かに本を閉じた。
「神籍管理局は、過去を書き換える場所じゃない。」
「でも。」
「過去との向き合い方は、一緒に見つけられる。」
窓の外では、雨がやみ、雲の切れ間から夕日が差し込んでいた。
その光は、まるで新しい一通の手紙が、誰かの心へ届いたことを祝福しているようだった。




