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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

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第七十八話

翌朝。


 神籍管理局東京支部の記録室。


 白紙の本は静かに机の上に置かれていた。


 アオイは昨夜から何度もページをめくっている。


「やっぱり……。」


 スズが隣から覗き込む。


「変化はありましたか?」


 アオイはゆっくりとうなずいた。


「昨夜は『継続中』だけでした。」


「ですが、今朝になって文字が増えています。」


 トワたちも本の周りに集まる。


 新しく現れた一文は、短かった。


未配達は、手紙だけではない。


 レンが眉をひそめる。


「どういう意味だ?」


 トワはしばらく考え込んだ。


「雨宮さんが届けられなかったのは、手紙だけじゃない……?」


 その言葉に、さくらが小さく反応した。


「気持ち……かな。」


 全員の視線がさくらへ向く。


 彼女は少し照れながら続けた。


「三十年間ずっと、『届けられなかった』って思ってきた。」


「その気持ちも、ずっと雨宮さんの中に残ってた。」


 アオイは静かに本を閉じた。


「……その可能性があります。」



 午後。


 トワたちは再び雨宮の家を訪れた。


 小さな平屋の玄関先には、色とりどりの鉢植えが並んでいる。


「また来てくださったんですね。」


 雨宮は少し驚きながらも、穏やかに迎えてくれた。


 居間へ通されると、壁一面に古い写真が飾られていた。


 配達用の赤いバイク。


 雪の日。


 夏祭り。


 入学式の日に笑う子どもたち。


 地域の人々と一緒に写る雨宮。


「全部、配達の途中で撮った写真なんです。」


 雨宮は懐かしそうに目を細めた。


「手紙を届けるたびに、人の暮らしにも出会いました。」


 トワは一枚の写真の前で足を止める。


 そこには、若い女性が笑顔で郵便を受け取っている姿が写っていた。


「この方は?」


 雨宮は写真を見つめた。


「朝倉千鶴さんです。」


 部屋が静まり返る。


「この写真……。」


「修一さんへの手紙を毎日のように出していた頃です。」


 千鶴は、封筒を胸に抱えながら笑っていた。


 その笑顔は、未来を信じている人の笑顔だった。



 写真立ての横に、小さな木箱が置かれていた。


「これは?」


 トワが尋ねると、雨宮は照れくさそうに笑った。


「退職するときにもらった寄せ書きです。」


 箱を開ける。


 中には、何十枚もの小さな手紙が丁寧にしまわれていた。


「いつも笑顔をありがとう。」


「雨の日も雪の日も、本当にお疲れさまでした。」


「あなたが届けてくれた手紙で、人生が変わりました。」


 一枚一枚、違う字。


 違う紙。


 でも、どれも温かい。


 雨宮は少し恥ずかしそうに笑った。


「退職した日にいただいたんですが……。」


「読むたびに照れくさくて。」


「全部は読めていないんです。」


 トワは静かに木箱を閉じた。


 そして、優しく言った。


「雨宮さん。」


「あなたは三十年間、一通の手紙を届けられなかったと思っていた。」


「でも。」


「三十年間で、何万通もの手紙を届けてきたんですよね。」


 雨宮は黙ったまま、うなずく。


「その一通は、確かに心残りです。」


「でも、それだけで三十年の仕事が消えてしまうことはありません。」


「あなたが届けてきた想いは、こんなにたくさん残っています。」


 雨宮の視線が、寄せ書きへ向かう。


 一枚の紙を手に取る。


 震える指で開く。


『あなたが届けてくれた父からの手紙は、今も私の宝物です。』


 雨宮は、静かに目を閉じた。


 頬を、一筋の涙が流れる。


「そうか……。」


「私は、ちゃんと届けられていたんですね。」


 その夜。


 神籍管理局へ戻ると、白紙の本に新しい文字が浮かび上がっていた。


依頼番号003


完了


『人は、一つの後悔だけで人生を量ることはできない。


積み重ねた優しさは、誰かの記憶の中で生き続ける。』


 トワは静かに本を閉じた。


「神籍管理局は、過去を書き換える場所じゃない。」


「でも。」


「過去との向き合い方は、一緒に見つけられる。」


 窓の外では、雨がやみ、雲の切れ間から夕日が差し込んでいた。


 その光は、まるで新しい一通の手紙が、誰かの心へ届いたことを祝福しているようだった。

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