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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

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第七十七話

応接室には、雨音だけが静かに響いていた。


 机の上には、一通の封筒。


 三十年という歳月を越えても、封は固く閉じられたままだ。


 トワは封筒を見つめながら尋ねた。


「差出人のお名前を教えていただけますか。」


 雨宮は少し考え、ゆっくりと答えた。


「差出人は……朝倉千鶴さん。」


「宛先は、伊吹修一さんです。」


「お二人は、ご夫婦だったんですか?」


「いいえ。」


 雨宮は首を横に振る。


「婚約者同士でした。」


 その一言に、部屋の空気が少しだけ重くなる。


「修一さんは病気で入院されていて。」


「千鶴さんは毎日のように手紙を書いていました。」


「直接会えない日でも、必ず届くように、と。」


 トワは封筒をそっと手に取る。


 丁寧な字で宛名が書かれている。


 その文字だけで、送り主がどれほど大切に書いた手紙なのかが伝わってくる。


「最後の一通だったんですね。」


 雨宮は静かにうなずいた。


「配達の順番が、あと少し早ければ。」


「そう思った日は、一度や二度ではありません。」


 その声には、三十年間抱え続けた後悔が滲んでいた。



 アオイは古い戸籍や記録を調べていた。


「局長。」


「お二人とも、ご家族はすでに亡くなられています。」


「近しい親族も見つかりません。」


「つまり。」


 レンが静かに言う。


「この手紙を覚えている人は、雨宮さんだけか。」


 雨宮は苦く笑った。


「ええ。」


「だから、私が忘れたら。」


「この手紙は、本当に誰にも知られなくなる。」


 その言葉を聞いたさくらが、小さく口を開いた。


「忘れない人が、一人でもいたら。」


 みんながさくらを見る。


「その人は、いなくならないんじゃないかな。」


 まだ幼い言葉。


 けれど、その一言に雨宮は目を潤ませた。


「そう……ですね。」


「私は、この手紙を忘れたことはありません。」



 数日後。


 トワたちは、修一が眠る墓地を訪れていた。


 雨は上がり、雲の切れ間から淡い陽射しが差している。


 墓石の周りには、小さな白い花が咲いていた。


「ここです。」


 雨宮は深く一礼する。


 三十年ぶりの訪問だった。


 トワは封筒を両手で持ち、墓前にそっと置いた。


「封は開けません。」


 雨宮が驚いたように顔を上げる。


「いいんですか?」


 トワは穏やかにうなずく。


「これは、千鶴さんから修一さんへの手紙です。」


「誰かが読むものじゃありません。」


「私たちは、届けるところまで。」


 その言葉に、雨宮は静かに涙をぬぐった。


「……ありがとうございます。」


 風が吹く。


 木々が揺れる。


 封筒が飛ばされることはなかった。


 まるで、この場所がようやく手紙を受け取ったかのように。


 雨宮は郵便かばんから、一輪の白い百合を取り出した。


 墓前に供え、帽子を胸に抱く。


「修一さん。」


「遅くなりました。」


「三十年も、お待たせしました。」


 その声は震えていた。


 けれど、どこか晴れやかでもあった。



 帰り道。


 雨上がりの空に、小さな虹が架かっていた。


 トワたちは足を止める。


「きれい。」


 さくらが空を見上げる。


 雨宮も同じように虹を見つめた。


「配達をしていた頃。」


「雨上がりの虹を見るたびに、『今日はいい便りが届きそうだ』と思っていました。」


 トワは笑った。


「今日はどうですか?」


 雨宮は少し考えてから、静かに答えた。


「今日は……。」


「私の心に、一通の返事が届いた気がします。」


 その笑顔には、三十年間背負い続けた重荷が、少しだけ軽くなった安堵が浮かんでいた。


 その夜。


 白紙の本には、新しい一文が記される。


依頼番号003 継続中


『想いは、届いた瞬間に終わるのではない。


受け取った人の心で、生き続ける。』


 アオイはその文字を見つめながら、小さく首をかしげた。


「継続中……?」


 今までの依頼なら「完了」と記されていたはずだった。


 しかし今回は違う。


 まるで、この手紙にはまだ終わっていない何かが残されているように。


 静かな違和感だけを残して、雨音の夜は更けていった。

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