第七十七話
応接室には、雨音だけが静かに響いていた。
机の上には、一通の封筒。
三十年という歳月を越えても、封は固く閉じられたままだ。
トワは封筒を見つめながら尋ねた。
「差出人のお名前を教えていただけますか。」
雨宮は少し考え、ゆっくりと答えた。
「差出人は……朝倉千鶴さん。」
「宛先は、伊吹修一さんです。」
「お二人は、ご夫婦だったんですか?」
「いいえ。」
雨宮は首を横に振る。
「婚約者同士でした。」
その一言に、部屋の空気が少しだけ重くなる。
「修一さんは病気で入院されていて。」
「千鶴さんは毎日のように手紙を書いていました。」
「直接会えない日でも、必ず届くように、と。」
トワは封筒をそっと手に取る。
丁寧な字で宛名が書かれている。
その文字だけで、送り主がどれほど大切に書いた手紙なのかが伝わってくる。
「最後の一通だったんですね。」
雨宮は静かにうなずいた。
「配達の順番が、あと少し早ければ。」
「そう思った日は、一度や二度ではありません。」
その声には、三十年間抱え続けた後悔が滲んでいた。
◇
アオイは古い戸籍や記録を調べていた。
「局長。」
「お二人とも、ご家族はすでに亡くなられています。」
「近しい親族も見つかりません。」
「つまり。」
レンが静かに言う。
「この手紙を覚えている人は、雨宮さんだけか。」
雨宮は苦く笑った。
「ええ。」
「だから、私が忘れたら。」
「この手紙は、本当に誰にも知られなくなる。」
その言葉を聞いたさくらが、小さく口を開いた。
「忘れない人が、一人でもいたら。」
みんながさくらを見る。
「その人は、いなくならないんじゃないかな。」
まだ幼い言葉。
けれど、その一言に雨宮は目を潤ませた。
「そう……ですね。」
「私は、この手紙を忘れたことはありません。」
◇
数日後。
トワたちは、修一が眠る墓地を訪れていた。
雨は上がり、雲の切れ間から淡い陽射しが差している。
墓石の周りには、小さな白い花が咲いていた。
「ここです。」
雨宮は深く一礼する。
三十年ぶりの訪問だった。
トワは封筒を両手で持ち、墓前にそっと置いた。
「封は開けません。」
雨宮が驚いたように顔を上げる。
「いいんですか?」
トワは穏やかにうなずく。
「これは、千鶴さんから修一さんへの手紙です。」
「誰かが読むものじゃありません。」
「私たちは、届けるところまで。」
その言葉に、雨宮は静かに涙をぬぐった。
「……ありがとうございます。」
風が吹く。
木々が揺れる。
封筒が飛ばされることはなかった。
まるで、この場所がようやく手紙を受け取ったかのように。
雨宮は郵便かばんから、一輪の白い百合を取り出した。
墓前に供え、帽子を胸に抱く。
「修一さん。」
「遅くなりました。」
「三十年も、お待たせしました。」
その声は震えていた。
けれど、どこか晴れやかでもあった。
◇
帰り道。
雨上がりの空に、小さな虹が架かっていた。
トワたちは足を止める。
「きれい。」
さくらが空を見上げる。
雨宮も同じように虹を見つめた。
「配達をしていた頃。」
「雨上がりの虹を見るたびに、『今日はいい便りが届きそうだ』と思っていました。」
トワは笑った。
「今日はどうですか?」
雨宮は少し考えてから、静かに答えた。
「今日は……。」
「私の心に、一通の返事が届いた気がします。」
その笑顔には、三十年間背負い続けた重荷が、少しだけ軽くなった安堵が浮かんでいた。
その夜。
白紙の本には、新しい一文が記される。
依頼番号003 継続中
『想いは、届いた瞬間に終わるのではない。
受け取った人の心で、生き続ける。』
アオイはその文字を見つめながら、小さく首をかしげた。
「継続中……?」
今までの依頼なら「完了」と記されていたはずだった。
しかし今回は違う。
まるで、この手紙にはまだ終わっていない何かが残されているように。
静かな違和感だけを残して、雨音の夜は更けていった。




