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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

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第七十六話

六月。


 朝から静かな雨が降っていた。


 神籍管理局東京支部の庭では、雨粒が若い桜の葉を優しく濡らしている。


 軒先では、ツバメの親子が雨宿りをしていた。


「今日はよく降るね。」


 トワは窓を開け、ひんやりとした空気を胸いっぱいに吸い込む。


 雨の匂い。


 濡れた土の匂い。


 どこか懐かしく、心が落ち着く香りだった。


「局長。」


 スズが湯気の立つ湯のみを差し出す。


「温かいほうじ茶です。」


「ありがとう。」


 両手で包むと、じんわりと温もりが伝わってくる。


 その時だった。


 玄関の鈴が、静かに鳴った。


 チリン。


 いつもより控えめな音。


 トワが玄関へ向かうと、一人の男性が立っていた。


 紺色のレインコート。


 肩から古びた郵便かばんを提げている。


 年の頃は五十代半ば。


 白髪が少し混じり始めていた。


「おはようございます。」


 穏やかな笑顔だった。


「神籍管理局で、間違いありませんか。」


「はい。」


「ようこそ。」


 トワが傘を受け取ると、男性は深く頭を下げた。


「私、雨宮と申します。」


「長年、郵便配達をしていました。」


「今日は……お願いがあって参りました。」



 応接室。


 窓を打つ雨音だけが静かに響いている。


 雨宮は、革の郵便かばんをそっと机に置いた。


 大切そうに留め金を外す。


 中から取り出したのは、一通の封筒だった。


 白い封筒。


 角は少し擦れている。


 切手には、今では使われていない古い図柄が描かれていた。


「三十年前。」


 雨宮がゆっくりと話し始める。


「この手紙を届けるはずでした。」


 部屋が静まり返る。


「でも。」


「届けられなかったんです。」


 トワが静かに尋ねる。


「宛先の方が……。」


 雨宮は小さくうなずいた。


「私が伺う前日に、亡くなられました。」


 封筒を見つめる目は、どこか自分を責めているようだった。


「規則どおりなら、差出人へ返送する手紙です。」


「ですが。」


「差出人も、その数か月後に亡くなりました。」


 誰にも届けられない手紙。


 三十年もの間、雨宮はその封筒を手放せずにいた。


「ずっと思っていました。」


「この手紙は、どこへ行けばいいのだろう、と。」


 トワは封筒に目を向ける。


 差出人も、受取人も、もうこの世にはいない。


 けれど。


 封は、一度も開けられていなかった。


「中は読んでいません。」


 雨宮が静かに言う。


「郵便配達員は、手紙を運ぶだけですから。」


 その言葉に、レンがゆっくりとうなずく。


「約束を守り続けたんだな。」


 雨宮は少し照れたように笑った。


「ええ。」


「届けられなかった約束ですが。」


「せめて、誰にも読まれないまま守ろうと思いました。」


 そのとき。


 アオイが白紙の本を開く。


 静かな光がページを照らす。


 浮かび上がった文字は短かった。


依頼番号003


『届けられなかった想いにも、帰る場所はある。』


 トワは、その一文を何度も読み返した。


 そして、封筒を見つめながら静かに言う。


「雨宮さん。」


「この手紙を、一緒に送り届けましょう。」


 雨宮は驚いたように顔を上げる。


「もう相手はいませんよ。」


 トワは穏やかに微笑んだ。


「届く相手がいなくても。」


「届いてほしい気持ちは、まだここにあります。」


 窓の外では、雨が優しく紫陽花を濡らしていた。


 六月の雨は、悲しみを流すためではない。


 誰かの想いを、静かに未来へ運ぶために降っているようだった。

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