第七十五話
翌朝。
神籍管理局東京支部は、いつもと変わらない朝を迎えていた。
廊下には職員たちの挨拶が響き、食堂からは焼き魚の香りが漂ってくる。
だが、局長室だけは少し違っていた。
机の上には、昨夜見つかった古い紙片が置かれている。
「『記憶庫 第零書架』……。」
トワは何度もその文字を見つめた。
横ではアオイが資料を広げている。
神籍管理局創設以来の記録。
歴代局長の日誌。
古い地図。
どれにも「第零書架」の記述はない。
「本当に存在しないんでしょうか。」
スズが尋ねる。
アオイは首を横に振った。
「存在しない、というより……。」
「意図的に記録から外されているように見えます。」
レンが腕を組む。
「そんなことができるのか?」
「神籍の管理そのものを書き換えられる者なら、不可能ではありません。」
部屋が静まり返る。
世界を救ったあとも、まだ知らないことがある。
その事実が、トワの胸に静かな緊張を生んでいた。
そのときだった。
コンコン。
控えめなノックが響く。
「どうぞ。」
扉が開き、さくらが顔をのぞかせた。
「朝のお茶、入ったよ。」
湯気の立つ急須を大事そうに抱えている。
「あ、ありがとう。」
トワは笑顔で受け取った。
さくらは机の上の紙片に気づく。
「……それ。」
少しだけ表情が変わる。
「どうしたの?」
さくらは紙片をじっと見つめた。
「見たこと、ある気がする。」
全員が息をのむ。
「本当に?」
トワが問いかける。
さくらは困ったように眉を寄せた。
「でも……。」
「思い出せない。」
「夢だったのかな。」
そっと紙片に指先を近づける。
触れた、その瞬間。
紙片が淡い銀色の光を放った。
部屋の景色が、ふっと揺らぐ。
一瞬だけ。
誰も見たことのない図書館が映った。
果てしなく続く書架。
天井が見えないほど高い空間。
無数の本。
そして、一番奥。
扉のない場所に、一つだけぽつんと置かれた白い書架。
そこには一冊も本がなかった。
ただ、木札だけが掛けられている。
第零書架
光景は一瞬で消えた。
部屋は元の静けさを取り戻す。
「今のは……。」
レンが低くつぶやく。
ヨルは静かに目を閉じた。
「記憶。」
「誰かの記憶が流れ込んだ。」
アオイは急いで白紙の本を開く。
新しい文字が、ゆっくりと浮かび上がる。
第零書架
閲覧資格──未確認
案内人──未登録
その下に、さらに一文。
『書架は、呼ぶことはできない。
呼ばれた者だけが、その前に立つ。』
トワは本を見つめながら、小さく息を吐いた。
「探しに行くんじゃない。」
「いつか、呼ばれるんだ。」
アオイが静かにうなずく。
「おそらく、その時が来るまでは。」
「私たちは、今までどおり依頼人と向き合うことが大切なのでしょう。」
トワは窓の外へ目を向けた。
中庭では、ゆうととさくらが若い桜の木に水をあげている。
笑い声が風に乗って聞こえてくる。
世界の大きな秘密は、まだ遠い。
けれど、その秘密へ続く道は、誰かの日常の中から始まるのかもしれない。
その日、神籍管理局は再び穏やかな一日を迎えた。
そして白紙の本には、新しい依頼のページが静かに開かれていた。




