第七十三話
季節は、ゆっくりと春から夏へ向かっていた。
神籍管理局の中庭では、若い桜の葉が青々と茂り始めている。
花びらはもうない。
それでも木は、静かに命を育んでいた。
「おはよう!」
元気な声とともに、ゆうとが玄関から駆け込んできた。
「おはよう、トワさん!」
「おはよう、ゆうと君。」
トワは笑顔で手を振る。
今では、学校が休みの日になると、ゆうとは神籍管理局へ遊びに来るようになっていた。
最初は緊張していた少年も、少しずつ笑顔が増えている。
「見て!」
ランドセルから取り出したのは、一冊の星座図鑑だった。
「昨日ね、お母さんと一緒に買ったんだ!」
ページには、色鮮やかな夏の星空が描かれている。
「これがペルセウス座!」
「こっちが夏の大三角!」
夢中で話すゆうとを見ながら、さくらも興味深そうに図鑑をのぞき込む。
「星って、こんなに名前があるんだ……。」
「うん!」
「お父さんがね。」
「『名前があるから、空で迷わないんだ』って言ってた。」
その言葉に、トワはそっと目を細めた。
名前があるから、迷わない。
それは魂も同じなのかもしれない。
トワは隣で花に水をあげているさくらを見る。
まだ本当の名前は分からない。
それでも、「さくら」と呼ばれるたびに、彼女は安心したように笑う。
呼びかける声には、居場所をつくる力がある。
そんなことを、最近よく思うようになった。
◇
午後になると、トワたちは屋上へ上がった。
双眼鏡。
星座早見盤。
レジャーシート。
「まだ昼なのに?」
さくらが不思議そうに尋ねる。
レンが笑う。
「星を見る日も、準備は昼からだ。」
「準備?」
「空は待ってくれないからな。」
ゆうとは嬉しそうにうなずく。
「お父さんも同じこと言ってた!」
トワはシートを広げながら笑う。
「じゃあ今日は、星を見る練習だね。」
四人は寝転がって、青空を見上げた。
昼間の空には星は見えない。
でも。
「見えないだけで。」
トワが静かに言う。
「星は、ちゃんとそこにあるんだよ。」
ゆうとは目を閉じた。
「お父さんも?」
トワは少しだけ考えた。
そして、静かに答える。
「私は、お父さんが星になったとは思わない。」
ゆうとが顔を上げる。
「でもね。」
「お父さんが君を大好きだったことは、本当にあったこと。」
「その気持ちは、今も消えてない。」
「だから、星を見上げるたびに思い出せるなら、それはとても素敵なことだと思う。」
ゆうとは何も言わなかった。
ただ、青空を見つめたまま、小さくうなずいた。
◇
夕方。
アオイは白紙の本を開いていた。
ページには、また新しい文字が浮かび上がる。
依頼番号002
進行率 46%
その下には、一文だけ。
約束は、その日だけで叶うものではない。
待つ時間もまた、約束の一部である。
アオイは本を閉じ、静かに微笑んだ。
「局長。」
「はい?」
「この本は、依頼の結果だけではなく……。」
「依頼人と過ごした時間まで、記録しているようです。」
トワは少し驚いてから、優しく笑った。
「それなら、この本は。」
「思い出の本なんだね。」
窓の外では、夕焼けに染まった空へ、一番星が静かに姿を見せ始めていた。
夏は、もうすぐそこまで来ている。
そしてその夜空には、一つの約束が、静かに待っていた。




