第七十話
約束の日は、よく晴れていた。
青空には雲ひとつない。
風は穏やかで。
春の匂いがした。
トワたちは、恒一の家を訪れていた。
「お待たせしました。」
玄関から現れた恒一は、濃紺の背広を着ていた。
胸元には、小さな桜色のネクタイ。
「そのネクタイ、素敵ですね。」
トワが言うと、恒一は少し照れくさそうに笑った。
「美咲が定年退職の日にくれたものです。」
「『桜を見る日は、これを締めてね』って。」
レンは何も言わなかった。
ただ、帽子を少し深くかぶり直した。
ヨルはそっと空を見上げる。
今日は、いい日になる。
そんな予感がした。
◇
川沿いの桜並木。
花は満開だった。
風が吹くたびに。
薄桃色の花びらが、ゆっくりと舞い落ちる。
「きれい……。」
さくらが思わず声を漏らした。
「うん。」
トワも笑う。
「今年も咲いてくれた。」
恒一は一本の桜の前で立ち止まった。
「ここです。」
「毎年来ていた場所は。」
幹には、小さな傷があった。
昔、幼い子どもがぶつけた自転車の跡だという。
その傷さえも、大切な思い出だった。
恒一は静かに桜を見上げた。
「美咲。」
風が吹く。
枝が優しく揺れる。
「今年も来たよ。」
返事はない。
けれど。
花びらが一枚。
恒一の肩へ、そっと舞い降りた。
トワは何も言わなかった。
今は、この静けさが一番大切だと思ったから。
◇
しばらくして。
恒一はポケットから、小さな封筒を取り出した。
「実は。」
「手紙を書いてきました。」
少し黄ばんだ便箋。
何度も書き直した跡がある。
「読んでもいいですか?」
トワが尋ねる。
恒一は首を横に振った。
「自分で読みます。」
深く息を吸う。
そして、ゆっくりと読み始めた。
「美咲へ。」
「約束を守れなくて、ごめん。」
声が少し震える。
「最後の春、一緒に桜を見られなかったことを、十年間ずっと悔やんできた。」
花びらが舞う。
「でもね。」
「今日、ようやく気づいたんだ。」
「君との約束は、終わっていなかった。」
恒一は空を見上げる。
「毎年、この桜を見上げるたび。」
「君を思い出していた。」
「それも、一緒に桜を見ることだったんだね。」
涙が、一粒。
頬を伝った。
「ありがとう。」
「また来年も来るよ。」
「その次の年も。」
「会える日まで、ずっと。」
手紙を静かに閉じる。
その瞬間。
ふわり。
優しい風が吹いた。
満開の桜が、一斉に揺れる。
花びらが、二人を包み込むように舞い上がった。
さくらが小さく呟く。
「……誰か、笑ってる。」
トワにも分かった。
姿は見えない。
声も聞こえない。
けれど。
そこには確かに、もう一人分の温もりがあった。
恒一も、静かに微笑む。
「美咲。」
「また来年。」
その一言は、別れではなかった。
来年へ続く約束だった。
◇
帰り道。
夕焼けが川面を赤く染めていた。
スズの端末が、小さく音を立てる。
「局長。」
「依頼の記録が更新されました。」
画面には、穏やかな文字が浮かんでいた。
依頼番号001 完了
『約束は、果たすものだけではない。歩み続けることで、未来へ受け継がれていく。』
トワは微笑みながら空を見上げた。
「神籍管理局って。」
「不思議な仕事だね。」
レンが穏やかに答える。
「世界を救うより難しい仕事かもしれないな。」
トワは小さく笑った。
「うん。」
「でも、この仕事が好き。」
その言葉を聞いたさくらは、そっと自分の胸に手を当てた。
まだ本当の名前は分からない。
それでも。
この場所には、自分を呼んでくれる人がいる。
それだけで、胸の奥が少し温かくなった。
神籍管理局には、今日もまた、新しい朝がやってくる。
誰かの願いを受け取り。
誰かの明日へ、小さな希望を届けるために。




