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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第四章 高天原の呼び声

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第七十話

約束の日は、よく晴れていた。


 青空には雲ひとつない。


 風は穏やかで。


 春の匂いがした。


 トワたちは、恒一の家を訪れていた。


「お待たせしました。」


 玄関から現れた恒一は、濃紺の背広を着ていた。


 胸元には、小さな桜色のネクタイ。


「そのネクタイ、素敵ですね。」


 トワが言うと、恒一は少し照れくさそうに笑った。


「美咲が定年退職の日にくれたものです。」


「『桜を見る日は、これを締めてね』って。」


 レンは何も言わなかった。


 ただ、帽子を少し深くかぶり直した。


 ヨルはそっと空を見上げる。


 今日は、いい日になる。


 そんな予感がした。



 川沿いの桜並木。


 花は満開だった。


 風が吹くたびに。


 薄桃色の花びらが、ゆっくりと舞い落ちる。


「きれい……。」


 さくらが思わず声を漏らした。


「うん。」


 トワも笑う。


「今年も咲いてくれた。」


 恒一は一本の桜の前で立ち止まった。


「ここです。」


「毎年来ていた場所は。」


 幹には、小さな傷があった。


 昔、幼い子どもがぶつけた自転車の跡だという。


 その傷さえも、大切な思い出だった。


 恒一は静かに桜を見上げた。


「美咲。」


 風が吹く。


 枝が優しく揺れる。


「今年も来たよ。」


 返事はない。


 けれど。


 花びらが一枚。


 恒一の肩へ、そっと舞い降りた。


 トワは何も言わなかった。


 今は、この静けさが一番大切だと思ったから。



 しばらくして。


 恒一はポケットから、小さな封筒を取り出した。


「実は。」


「手紙を書いてきました。」


 少し黄ばんだ便箋。


 何度も書き直した跡がある。


「読んでもいいですか?」


 トワが尋ねる。


 恒一は首を横に振った。


「自分で読みます。」


 深く息を吸う。


 そして、ゆっくりと読み始めた。


「美咲へ。」


「約束を守れなくて、ごめん。」


 声が少し震える。


「最後の春、一緒に桜を見られなかったことを、十年間ずっと悔やんできた。」


 花びらが舞う。


「でもね。」


「今日、ようやく気づいたんだ。」


「君との約束は、終わっていなかった。」


 恒一は空を見上げる。


「毎年、この桜を見上げるたび。」


「君を思い出していた。」


「それも、一緒に桜を見ることだったんだね。」


 涙が、一粒。


 頬を伝った。


「ありがとう。」


「また来年も来るよ。」


「その次の年も。」


「会える日まで、ずっと。」


 手紙を静かに閉じる。


 その瞬間。


 ふわり。


 優しい風が吹いた。


 満開の桜が、一斉に揺れる。


 花びらが、二人を包み込むように舞い上がった。


 さくらが小さく呟く。


「……誰か、笑ってる。」


 トワにも分かった。


 姿は見えない。


 声も聞こえない。


 けれど。


 そこには確かに、もう一人分の温もりがあった。


 恒一も、静かに微笑む。


「美咲。」


「また来年。」


 その一言は、別れではなかった。


 来年へ続く約束だった。



 帰り道。


 夕焼けが川面を赤く染めていた。


 スズの端末が、小さく音を立てる。


「局長。」


「依頼の記録が更新されました。」


 画面には、穏やかな文字が浮かんでいた。


依頼番号001 完了


『約束は、果たすものだけではない。歩み続けることで、未来へ受け継がれていく。』


 トワは微笑みながら空を見上げた。


「神籍管理局って。」


「不思議な仕事だね。」


 レンが穏やかに答える。


「世界を救うより難しい仕事かもしれないな。」


 トワは小さく笑った。


「うん。」


「でも、この仕事が好き。」


 その言葉を聞いたさくらは、そっと自分の胸に手を当てた。


 まだ本当の名前は分からない。


 それでも。


 この場所には、自分を呼んでくれる人がいる。


 それだけで、胸の奥が少し温かくなった。


 神籍管理局には、今日もまた、新しい朝がやってくる。


 誰かの願いを受け取り。


 誰かの明日へ、小さな希望を届けるために。

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