第七十話
神籍管理局東京支部。
応接室。
窓から差し込む春の日差しが、静かに部屋を照らしていた。
トワは、依頼書をもう一度読み返す。
依頼人
風間 恒一 九十歳
願い
「亡くなった妻に、もう一度だけ約束を伝えたい」
紙には、それ以上のことは書かれていない。
「シンプルだね。」
トワが呟く。
スズが頷いた。
「神籍管理局の依頼は、願いだけが届くことも珍しくありません。」
「理由は?」
「直接、お話を聞いていただくためです。」
トワは依頼書をそっと閉じた。
「じゃあ、会いに行こう。」
◇
依頼人が暮らしていたのは、東京の下町にある小さな平屋だった。
庭には色とりどりの花。
手入れは行き届いている。
けれど、その花を世話する人の姿はない。
「きれい。」
さくらが小さく呟く。
トワも頷いた。
「きっと大切にしてたんだね。」
玄関をノックする。
しばらくして、ゆっくりと扉が開いた。
「……神籍管理局の方ですか。」
穏やかな声。
白髪の老人が、少し驚いたように微笑んだ。
「はい。」
「神崎トワです。」
老人は深く頭を下げる。
「風間恒一です。」
「来てくださって、ありがとうございます。」
◇
居間は、どこか懐かしい空気に包まれていた。
柱時計。
古い食器棚。
窓辺には、一枚の写真。
若い夫婦が笑っている。
「奥様ですか?」
トワが尋ねる。
恒一は写真を見つめ、優しく頷いた。
「ええ。」
「美咲です。」
その名前を口にした瞬間。
部屋の空気が少しだけ温かくなった気がした。
トワは、その変化を見逃さなかった。
「今でも毎日、話しかけているんです。」
恒一は照れくさそうに笑う。
「返事はありませんがね。」
その笑顔は優しかった。
でも。
どこか寂しかった。
「伝えたい約束って、何ですか?」
その問いに。
恒一は少し黙り込んだ。
やがて、小さく息をつく。
「……約束を、破ってしまったんです。」
トワたちは顔を上げる。
「六十年前。」
「桜が満開の日でした。」
恒一の視線は、遠い春へ向いていた。
「私は美咲に約束しました。」
「毎年、一緒に桜を見よう。」
「たとえ、おじいさんとおばあさんになっても。」
部屋は静まり返る。
「でも。」
恒一は写真立てをそっと撫でる。
「十年前。」
「美咲は病気で逝きました。」
「最後の春は、一緒に桜を見られなかった。」
窓の外で風が吹く。
庭の花が、静かに揺れた。
「だから。」
恒一は微笑む。
「約束を守れなかったことを、謝りたいんです。」
その言葉を聞いたトワは、首をゆっくり横に振った。
「……本当に、守れなかったのかな。」
恒一が驚いたように顔を上げる。
「え?」
トワは窓の外の花を見つめる。
庭は、季節ごとに咲く花でいっぱいだった。
きっと。
誰かのために植え続けた花たち。
「美咲さんは。」
「毎年、一緒に桜を見たいって言ったんですよね。」
「はい。」
「じゃあ。」
トワは柔らかく微笑んだ。
「今年の桜も、一緒に見に行きませんか。」
恒一の目が、大きく見開かれた。
「……今年も?」
「うん。」
「約束って、終わらせるものじゃなくて。」
「続けていくものだと思うから。」
その言葉に。
恒一の瞳が、静かに潤んでいった。
春は、今年もやってくる。
約束を運ぶ風もまた、変わらずに吹いていた。




