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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第四章 高天原の呼び声

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第七十話

神籍管理局東京支部。


 応接室。


 窓から差し込む春の日差しが、静かに部屋を照らしていた。


 トワは、依頼書をもう一度読み返す。


依頼人


風間 恒一 九十歳


願い


「亡くなった妻に、もう一度だけ約束を伝えたい」


 紙には、それ以上のことは書かれていない。


「シンプルだね。」


 トワが呟く。


 スズが頷いた。


「神籍管理局の依頼は、願いだけが届くことも珍しくありません。」


「理由は?」


「直接、お話を聞いていただくためです。」


 トワは依頼書をそっと閉じた。


「じゃあ、会いに行こう。」



 依頼人が暮らしていたのは、東京の下町にある小さな平屋だった。


 庭には色とりどりの花。


 手入れは行き届いている。


 けれど、その花を世話する人の姿はない。


「きれい。」


 さくらが小さく呟く。


 トワも頷いた。


「きっと大切にしてたんだね。」


 玄関をノックする。


 しばらくして、ゆっくりと扉が開いた。


「……神籍管理局の方ですか。」


 穏やかな声。


 白髪の老人が、少し驚いたように微笑んだ。


「はい。」


「神崎トワです。」


 老人は深く頭を下げる。


「風間恒一です。」


「来てくださって、ありがとうございます。」



 居間は、どこか懐かしい空気に包まれていた。


 柱時計。


 古い食器棚。


 窓辺には、一枚の写真。


 若い夫婦が笑っている。


「奥様ですか?」


 トワが尋ねる。


 恒一は写真を見つめ、優しく頷いた。


「ええ。」


「美咲です。」


 その名前を口にした瞬間。


 部屋の空気が少しだけ温かくなった気がした。


 トワは、その変化を見逃さなかった。


「今でも毎日、話しかけているんです。」


 恒一は照れくさそうに笑う。


「返事はありませんがね。」


 その笑顔は優しかった。


 でも。


 どこか寂しかった。


「伝えたい約束って、何ですか?」


 その問いに。


 恒一は少し黙り込んだ。


 やがて、小さく息をつく。


「……約束を、破ってしまったんです。」


 トワたちは顔を上げる。


「六十年前。」


「桜が満開の日でした。」


 恒一の視線は、遠い春へ向いていた。


「私は美咲に約束しました。」


「毎年、一緒に桜を見よう。」


「たとえ、おじいさんとおばあさんになっても。」


 部屋は静まり返る。


「でも。」


 恒一は写真立てをそっと撫でる。


「十年前。」


「美咲は病気で逝きました。」


「最後の春は、一緒に桜を見られなかった。」


 窓の外で風が吹く。


 庭の花が、静かに揺れた。


「だから。」


 恒一は微笑む。


「約束を守れなかったことを、謝りたいんです。」


 その言葉を聞いたトワは、首をゆっくり横に振った。


「……本当に、守れなかったのかな。」


 恒一が驚いたように顔を上げる。


「え?」


 トワは窓の外の花を見つめる。


 庭は、季節ごとに咲く花でいっぱいだった。


 きっと。


 誰かのために植え続けた花たち。


「美咲さんは。」


「毎年、一緒に桜を見たいって言ったんですよね。」


「はい。」


「じゃあ。」


 トワは柔らかく微笑んだ。


「今年の桜も、一緒に見に行きませんか。」


 恒一の目が、大きく見開かれた。


「……今年も?」


「うん。」


「約束って、終わらせるものじゃなくて。」


「続けていくものだと思うから。」


 その言葉に。


 恒一の瞳が、静かに潤んでいった。


 春は、今年もやってくる。


 約束を運ぶ風もまた、変わらずに吹いていた。

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