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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第四章 高天原の呼び声

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第六十九話

翌朝。


 東京支部の庭には、小鳥のさえずりが響いていた。


 さくらは、若い桜の木の前に立っていた。


 昨日よりも少しだけ、表情が柔らかい。


「おはよう。」


 トワが声を掛ける。


「おはよう。」


 さくらも笑顔で返した。


 それだけのやり取りなのに。


 昨日より距離が近くなった気がした。


「眠れた?」


「うん。」


「夢を見たの。」


 トワは隣に腰を下ろす。


「どんな夢?」


 さくらは少し考える。


「手をつないで歩いてた。」


「誰と?」


「分からない。」


「でも。」


 嬉しそうに微笑む。


「すごく安心できた。」


 その話を聞いていたアオイが、静かに白紙の本を開いた。


 また一行だけ文字が増えている。


記憶は、思い出すものではない。


誰かとの時間の中で育っていく。


 アオイは小さく頷いた。


「記録が進んでいます。」


 スズも画面を確認する。


「魂の安定率が四十二パーセントから五十八パーセントへ上昇しました。」


 トワは驚く。


「話しただけなのに?」


「はい。」


 スズは微笑んだ。


「安心できる場所があることも、魂には大切なのでしょう。」



 その日の午後。


 トワは一枚の小さな木札を持ってきた。


「これ。」


 さくらへ差し出す。


 表には何も書かれていない。


「まだ本当の名前は分からないから。」


「君が見つかるまでの名札。」


 さくらは両手で受け取る。


「書いていいの?」


「もちろん。」


 筆を持つ。


 少し迷ってから。


 ゆっくりと書いた。


 さくら


 文字は少し曲がっていた。


 でも。


 一生懸命書いた文字だった。


「できた。」


 トワは嬉しそうに拍手した。


「上手。」


 さくらは照れくさそうに笑う。


 その瞬間。


 木札が淡く光る。


 ふわりと春風が吹いた。


 庭の桜が小さく揺れる。


 そして。


 誰にも見えないほど淡い光が、木札へ吸い込まれていった。


 アオイが驚いて本を開く。


 新しい記録が現れている。


仮称が、魂に受け入れられました。


識別名『さくら』を一時登録。


「名前は。」


 アオイが静かに言う。


「誰かにもらうだけじゃない。」


「自分で受け入れることでも、本当の名前になっていくのかもしれません。」


 レンが珍しく優しい顔をする。


「少し前のお前も、そんな感じだったな。」


「え?」


「神籍の主なんて無理だって言ってただろ。」


 トワは苦笑する。


「今でも思ってるよ。」


「でも。」


 庭で笑うさくらを見る。


「この仕事は好き。」


「誰かが笑ってくれるなら、頑張れる。」


 その言葉に、レンも静かに笑った。


 世界は、まだ広い。


 救いを待つ魂も、きっとたくさんいる。


 神籍管理局は、その一人ひとりのためにある。


 そのとき、支部の受付で小さな鈴の音が鳴った。


 チリン。


 新しい依頼人が訪れた合図だった。


 スズが受付へ向かい、しばらくして戻ってくる。


「局長。」


「次の依頼です。」


「どんな人?」


 スズは依頼書を見ながら答えた。


「依頼人は九十歳の男性です。」


「願いは、たった一つ。」


 ページをめくる。


 そこには短く記されていた。


『亡くなった妻に、もう一度だけ約束を伝えたい。』


 トワは依頼書を胸に抱き、ゆっくりとうなずいた。


「行こう。」


「約束を届けに。」


 春の風が吹き抜ける。


 桜の花びらが舞う中、神籍管理局の新しい一日が始まった。

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