第六十八話
東京支部。
応接室。
少女――仮称「さくら」は、少し緊張した様子でソファに座っていた。
目の前には温かいお茶。
そして。
湯気の立つどら焼き。
「食べていいの?」
遠慮がちに尋ねる。
「もちろん。」
トワが笑う。
「いただきます。」
さくらは、小さく両手を合わせた。
一口。
もう一口。
ふわりと表情がほころぶ。
「……おいしい。」
その笑顔に、部屋の空気まで柔らかくなる。
レンが腕を組みながら呟く。
「昨日まで名前も分からなかったとは思えないな。」
「食べることは覚えてた。」
トワが笑う。
「それって、すごく大事なことだよ。」
スズが端末を操作している。
「局長。」
「どうしたの?」
「仮登録が完了しました。」
画面には新しい項目が表示される。
神籍管理局 保護対象
識別番号:M-001
呼称:さくら(仮称)
状態:身元調査中
さくらは画面を見つめる。
「ここに……私がいる。」
その一言は、小さいけれど確かな喜びに満ちていた。
「うん。」
トワは優しく頷く。
「まだ本当の名前じゃないかもしれない。」
「でも、君がここにいることは、ちゃんと記録されたよ。」
さくらの瞳が潤む。
「ありがとう……。」
◇
その日の午後。
トワはさくらを東京支部の中庭へ案内した。
四季折々の草花が咲く、小さな庭。
中央には一本の若い桜の木が植えられている。
「この木ね。」
トワは幹をそっと撫でる。
「樹巫女さんの花から育った桜なんだ。」
さくらは目を丸くした。
「花から……木が?」
「うん。」
「大切な想いは、形を変えて残ることがあるんだ。」
風が吹く。
若葉がさらさらと揺れる。
その音を聞きながら、さくらは小さく呟いた。
「私も……。」
「誰かの想いから、生まれたのかな。」
トワは少し考えてから答えた。
「きっとね。」
「誰だって、一人で生まれるわけじゃない。」
「誰かが会いたいと思ってくれて。」
「誰かが名前を呼んでくれて。」
「そうやって、人は少しずつ『その人』になっていくんだと思う。」
さくらは桜の木を見上げる。
その瞬間。
木の枝から、一枚の花びらが舞い落ちた。
ひらり。
さくらの手のひらに乗る。
淡く光る花びら。
そして。
ほんの一瞬だけ。
耳元で懐かしい声が響いた。
『やっと見つけた。』
さくらは驚いて振り返る。
誰もいない。
「どうした?」
レンが尋ねる。
さくらは首を横に振った。
「……ううん。」
「誰かが、迎えに来てくれた気がしただけ。」
その言葉を聞いたアオイは、静かに白紙の本を開いた。
今まで何もなかったページに、新しい文字が浮かび上がる。
依頼番号001
進行状況:記録開始
「名前とは、誰かが呼び続けた願いである。」
トワはその一文を見つめ、静かに微笑んだ。
神籍管理局の仕事は、書類を整理することでも、魂を裁くことでもない。
忘れられそうになった誰かを、もう一度「世界にいる存在」として迎え入れること。
その最初の物語は、まだ始まったばかりだった。




