第六十六話
少女は椅子へちょこんと腰掛けていた。
両手で膝を抱え。
不安そうに周りを見ている。
「お茶飲む?」
トワが湯飲みを差し出す。
「……ありがとう。」
少女は両手で受け取った。
ふぅ、と息を吹きかける。
「温かい。」
その一言に。
トワは少しだけ安心した。
魂にも。
温かさは伝わる。
「私は神崎トワ。」
「神籍管理局で働いてる。」
「君は?」
少女は口を開く。
「……。」
止まる。
何度も口を動かす。
でも。
声にならない。
「名前が。」
「思い出せない。」
その言葉は。
泣きそうだった。
スズが静かにメモを取る。
「自己認識はあります。」
「ですが。」
「固有名詞だけが欠落しています。」
アオイも頷く。
「珍しい症例です。」
レンが少女の前へしゃがむ。
「家族は?」
少女は目を閉じる。
「お母さん。」
「いた。」
「優しかった。」
「それしか。」
記憶が続かない。
「お父さんは?」
「……。」
首を横へ振る。
「分からない。」
ヨルが小さく呟く。
「名前だけ消えたんじゃない。」
「名前を軸にした記憶まで薄れてる。」
部屋が静かになる。
その時。
トワは少女の足元を見る。
小さな靴。
泥が付いている。
「外を歩いてきたの?」
少女は頷く。
「ずっと。」
「探してた。」
「何を?」
少女は胸へ手を当てる。
「私。」
その一言が。
胸へ刺さった。
名前を失う。
それは。
自分が誰なのか。
分からなくなること。
トワはそっと笑う。
「じゃあ。」
「一緒に探そう。」
少女が顔を上げる。
「本当に?」
「もちろん。」
「神籍管理局は。」
「そういう場所だから。」
少女は少しだけ笑った。
その時だった。
局長室の電話が鳴る。
リン。
リン。
スズが受話器を取る。
「はい。」
「神籍管理局東京支部です。」
数秒後。
スズの表情が変わる。
「局長。」
「新しい案件です。」
「内容は?」
スズは静かに答える。
「東京都内で。」
「一夜にして。」
「三百二十七人が。」
「自分の名前を書けなくなりました。」
全員が息を呑む。
「全員。」
「共通して。」
「名前だけ思い出せません。」
少女が震え始める。
「……来た。」
小さな声。
「また。」
「名前を集める人が。」
トワたちは顔を見合わせた。
これは、一人の少女だけの問題ではない。
誰かが。
意図的に。
人々の「名前」を奪っている。
神籍管理局始まって以来の異常事態が、静かに幕を開けようとしていた。




