第112話
朝から、風が吹いていた。
神籍管理局の窓辺で、記憶樹の葉が揺れている。
昨日までと、何も変わらない景色だった。
けれど、トワの机の上には、一冊の本が開かれていた。
白い表紙。
そこに刻まれた、自分の名前。
トワ。
ページには、昨日、浮かび上がった言葉が残っていた。
――忘れたくないと願うこと。
――忘れられたくないと願うこと。
――それでも、物語は誰のものなのか。
トワは、その文字を何度も読み返していた。
「局長、朝食をお持ちしました」
アオイの声に顔を上げる。
「ああ、ありがとう」
机の端に置かれた皿には、焼いたパンと小さな器に入った果物が並んでいた。
湯気の立つお茶から、ほのかに香りが漂う。
トワは本を閉じ、パンを手に取った。
一口食べる。
けれど、いつものように味わうことができなかった。
「……何か、気になることでも?」
アオイが尋ねた。
「うん」
トワは本を見た。
「僕は、どこまで人の物語に手を入れていいんだろうと思ってね」
アオイは、少し考えた。
「局長は、今までずっと考えてきたんじゃないですか?」
「そうかな」
「はい。少なくとも私は、そう思っています」
アオイは空になった皿を持ち上げた。
「答えが出たら、教えてくださいね」
そう言って、部屋を出ていった。
トワは、その背中を見送った。
答えが出たら。
その言葉が、胸の中に残った。
*
昼前、あの女性が再び執務室を訪れた。
昨日と同じ黒い衣。
けれど、今日は手に何も持っていなかった。
「お話ししたいことがあって」
「どうぞ」
トワは椅子を勧めた。
女性は腰を下ろしたものの、なかなか口を開かなかった。
やがて、膝の上で重ねた手を見つめながら言った。
「昨日、帰ってから考えたんです」
トワは黙って聞いていた。
「私は、自分のしたことを残してほしいと言いました。でも……本当は、まだ怖いんです」
「何が、ですか?」
「私のしたことを、誰かが読むことが」
女性は顔を上げた。
「私を憎む人がいるかもしれません。許さない人もいるでしょう。それは、当然だと思います」
少し間を置いて、続けた。
「でも、そういう人たちに、私のことを知られるのが怖いんです」
トワは頷いた。
「そうですよね」
女性は意外そうに彼を見た。
「……怖くても、いいんですか?」
「怖いと思うことと、向き合わないことは、同じではありませんから」
女性は、ゆっくりと視線を落とした。
「私には、もう何も残っていないと思っていました」
「本当に、そうでしょうか」
トワは尋ねた。
「あなたが傷つけた人たちの記憶は、あなたのものではありません。でも、あなたが何をしたのかを語ることはできます。あなたが、これからどう生きるのかも」
女性は、黙っていた。
「それを読んだ人が、あなたをどう思うのか。許すのか、許さないのか。それは、その人たちが決めることです」
トワは続けた。
「あなたが決められるのは、自分の物語から逃げないことだけです」
女性は、しばらく俯いていた。
やがて、深く息を吸った。
「……分かりました」
その声には、まだ迷いがあった。
けれど、昨日とは違っていた。
「私のしたことを、きちんと残してください」
「はい」
「都合のいいところだけではなく」
「分かっています」
「それから……」
女性は言葉を切った。
窓の外を、風が通り過ぎていく。
「私が、あの子たちを愛していたことも」
トワは、顔を上げた。
「夫と、娘です」
女性は、かすかに笑った。
「私が失ったものも、私が間違えたことも。どちらも、私の人生だったから」
トワは静かに頷いた。
「分かりました」
それ以上、二人は話さなかった。
けれど、女性が立ち上がるとき、その表情には、昨日までなかったものがあった。
悲しみが消えたわけではない。
過去が変わったわけでもない。
それでも、自分の物語を誰かに預けるのではなく、自分の言葉で語ろうとしていた。
*
女性が帰ったあと、トワは書架へ向かった。
奥の棚に、まだ題名のない一冊が置かれている。
彼女のための本だった。
トワはそれを手に取り、机へ戻った。
表紙を開く。
最初のページには、何も書かれていない。
トワは、しばらく白い紙を見つめた。
何を書けばいいのだろう。
彼女が失ったもの。
誰かから奪ってしまったもの。
そして、これから彼女が生きていく時間。
そのすべてを、ひとつの言葉で表すことはできない。
トワはペンを手に取った。
ゆっくりと、最初の一行を書いた。
――彼女は、誰かの物語を読むことで、自分が生きていることを確かめようとした。
そこで、手を止める。
それだけでは足りなかった。
彼女がしたことを、寂しさだけで説明してはいけない。
傷ついた人たちのことも、書かなければならない。
トワは、次の行を書いた。
――そのために、彼女は、誰かが大切にしていた記憶を傷つけた。
ペン先が止まった。
その二行の間には、簡単には埋められない距離があった。
けれど、どちらも消すことはできなかった。
トワは、ゆっくりと息を吐いた。
そして、続きを書き始めた。
彼女が何を失ったのか。
何を求めたのか。
何をしてしまったのか。
そして、これから何を選ぶのか。
書き終えるまで、ずいぶん時間がかかった。
窓の外では、日が傾き始めていた。
最後の一行を書き終えたとき、トワはペンを置いた。
ページの文字が、淡い光を帯びる。
やがて光は静かに消え、本は一冊の物語として書架へ戻っていった。
トワは、その背表紙を見つめた。
彼女の過去は、消えなかった。
傷ついた人たちの物語も、消えなかった。
ただ、その隣に、新しい一冊が加わった。
これから先を生きていく、彼女自身の物語だった。
*
夜。
神籍管理局の執務室には、机の明かりだけが残っていた。
アオイとレンは、もう帰っている。
トワは一人、白い本を前に座っていた。
自分の名前が刻まれた本。
そのページには、相変わらず、ほとんど何も書かれていない。
けれど、最初のページに、新しい一行が現れていた。
――あなたは、何を残しますか。
トワは、その文字を見つめた。
今まで、彼は誰かの物語を受け取ってきた。
その人が何を忘れたくなかったのか。
何を伝えられなかったのか。
何を、誰かに知ってほしかったのか。
その一つひとつに耳を傾け、書架へ送り届けてきた。
けれど、自分自身の物語については、考えたことがなかった。
何を残したいのか。
誰に覚えていてほしいのか。
この仕事を終えたあと、自分はどこへ向かうのか。
トワは窓の外を見た。
記憶樹の葉が、夜の風に揺れている。
どこかの書架で、誰かの物語が開かれているのかもしれない。
どこかで、誰かが、忘れていた名前を思い出しているのかもしれない。
そして、どこかで。
まだ誰にも語られていない物語が、始まろうとしているのかもしれない。
トワは、本に手を置いた。
「……僕は」
声に出してみる。
自分の声が、静かな部屋に響いた。
「僕は、これからも物語を受け取りたい」
その言葉を口にしたとき、胸の奥が少しだけ軽くなった。
何もかもを救うことはできない。
失われたものを、すべて元に戻すこともできない。
それでも。
誰かが差し出した物語を、きちんと受け取りたい。
その人が生きた時間を、勝手に決めつけずに。
その人が残した言葉を、都合よく書き換えずに。
そして、まだ続いている物語を、終わったことにしないために。
トワは本を開いた。
白いページに、ゆっくりと文字が浮かび上がった。
――物語は、終わらない。
トワは、その一行を見つめた。
やがて、静かに微笑んだ。
「……そうだね」
窓の外で、風が吹いた。
記憶樹の葉が揺れ、机の上の紙が一枚、そっとめくれた。
その向こうには、まだ白いページが続いていた。




