第113話
朝の光が、窓辺に差し込んでいた。
記憶樹の葉には、夜露が残っている。
風が吹くたび、葉先から雫が落ち、庭の石に小さな音を立てた。
神籍管理局の執務室では、アオイが窓を開けていた。
「今日は、いいお天気ですね」
誰に言うでもなく、そう呟く。
机の上には、淹れたばかりのお茶。
書架には、数えきれないほどの本。
そして、いつもの椅子に、トワが座っていた。
「局長、朝食を持ってきますね」
「ありがとう」
トワは顔を上げた。
「アオイ」
「はい?」
「今日は、パンを少し多めにお願いできるかな」
「……お客様ですか?」
「いや。レンも来るだろう?」
アオイは一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「そうですね。レンさん、朝はいつもお腹を空かせていますから」
「本人は、認めないけどね」
二人の間に、小さな笑いが生まれた。
それは、特別な出来事ではなかった。
けれど、トワはその何気ない時間を、以前よりも大切に感じていた。
いつか失われるかもしれないもの。
いつか、思い出せなくなるかもしれないもの。
だからといって、今から悲しむ必要はない。
今ここにある時間を、きちんと生きればいい。
トワは窓の外へ目を向けた。
記憶樹の枝が、朝の風に揺れている。
*
朝食を終えたころ、レンがやってきた。
「おはようございます」
「おはよう。早かったね」
「書架の整理をしていたら、時間を忘れていました」
「それで、お腹が空いた?」
「……どうして分かるんですか」
「顔に書いてある」
レンは不服そうに眉を寄せた。
アオイが笑いながら、残しておいたパンを差し出す。
「どうぞ。局長が多めに頼んでくださったんです」
「局長が?」
レンはトワを見た。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
レンはパンを受け取り、ひと口かじった。
そのとき。
玄関の鈴が鳴った。
カラン。
三人の動きが止まる。
トワは椅子から立ち上がった。
「行ってくるよ」
「はい」
廊下を歩く。
いつもの床板が、足元で小さく鳴った。
玄関へ続く窓から、風が入り込んでいる。
トワは扉の前で足を止めた。
以前なら、依頼人がどんな人なのか、何を抱えているのか、扉を開ける前から考えていた。
どうすれば救えるのか。
どんな言葉をかければいいのか。
自分に何ができるのか。
けれど今は、少し違う。
まずは、話を聞こう。
その人が、ここへ来るまでに歩いてきた時間を。
その人が、言葉にできずにいるものを。
それから、一緒に考えればいい。
トワは取っ手に手をかけた。
扉を開く。
そこには、小さな女の子が立っていた。
年は、七つか八つくらいだろうか。
両手で、一冊のノートを抱えている。
表紙には、色鉛筆で描かれた花があった。
少し歪んだ花びら。
緑色の茎。
その横に、小さな太陽。
「あの……」
女の子は、トワを見上げた。
「ここは、なくしたものを探してくれるところですか?」
トワは、そっと膝を折った。
「そうだよ」
女の子は、ノートを抱きしめた。
「わたし、忘れちゃったんです」
「何を?」
「おばあちゃんの声」
小さな声だった。
「おばあちゃん、去年、死んじゃったの」
女の子は、ノートの端を指で撫でた。
「お母さんは、写真を見れば思い出せるって言うんだけど……写真を見ても、声は聞こえないの」
トワは、女の子の言葉を聞いていた。
「おばあちゃん、どんな声だったかなって。何度も考えたんだけど、もう、よく分からなくて」
女の子は俯いた。
「忘れたくないのに」
その言葉を聞いたとき、トワの胸に、いくつもの物語が浮かんだ。
朝顔を見上げた陽菜。
祖父との約束を探していた悠。
届けられなかった手紙を、ようやく自分で読んだ美穂。
そして、誰かの記憶の中に居場所を求めていた、あの女性。
誰もが、失いたくないものを抱えていた。
けれど、失わないことだけが、愛することではないのかもしれない。
トワは女の子のノートを見た。
「それは、おばあちゃんが描いた絵?」
女の子は首を横に振った。
「わたしが描いたの」
「そうなんだ。きれいな花だね」
「おばあちゃん、花が好きだったの。お庭にいっぱい咲いてた」
「うん」
「わたしが転んだときも、泣いたときも、おばあちゃんは、いつも……」
女の子は、そこで言葉を止めた。
何かを思い出そうとしているようだった。
「いつも、何て言ってくれたのか、忘れちゃった」
トワは頷いた。
「そっか」
それから、ゆっくりと尋ねた。
「おばあちゃんと一緒にいたとき、どんな気持ちだった?」
女の子は顔を上げた。
「……え?」
「嬉しかった? 楽しかった? それとも、安心した?」
女の子は考えた。
窓の外で、風が吹いている。
記憶樹の葉が、さらさらと音を立てた。
「……安心した」
やがて、女の子は言った。
「おばあちゃんのところに行くと、安心したの」
トワは微笑んだ。
「そうなんだね」
「うん」
女の子はノートを開いた。
そこには、花の絵のほかに、拙い文字がいくつも並んでいた。
おばあちゃんと、はなをうえた。
おばあちゃんと、おやつをたべた。
おばあちゃんと、あめのひに、まどをみた。
どれも、短い言葉だった。
けれど、女の子がその一つひとつを大切にしていることは、トワにも分かった。
「……これ、全部、覚えてるの?」
「うん。忘れないように書いたの」
女の子は、少しだけ笑った。
「でも、声は書けなかった」
トワは、そのノートを見つめた。
言葉は、いつか曖昧になる。
声も、顔も、仕草も。
人の記憶は、いつまでも同じ形では残らない。
それでも、一緒に過ごした時間が、すべて消えてしまうわけではない。
花を植えた土の感触。
おやつの甘さ。
雨の日の窓に流れる雫。
そして、そこにいるだけで安心できたという気持ち。
それらは、今も女の子の中に残っている。
「ねえ」
トワは、優しく尋ねた。
「おばあちゃんが、今ここにいたら、何て言ってほしい?」
女の子は、しばらく考えていた。
やがて、ノートを胸に抱いた。
「……よく覚えてたね、って」
その声が、少し震えた。
「そう言ってほしい」
トワは、静かに頷いた。
「うん」
それ以上、何も言わなかった。
女の子はノートを閉じた。
その表紙を、両手で大事そうに押さえている。
「……ここに来たら、おばあちゃんの声を思い出せる?」
トワは、少しだけ考えた。
できる、と約束することは簡単だった。
けれど、それはきっと、彼女のためにはならない。
「声を、そのまま取り戻せるかは分からない」
女の子は、じっとトワを見た。
「でも、おばあちゃんと過ごした時間を、一緒に辿ることはできるよ」
「……ほんとう?」
「うん」
トワは手を差し出した。
「よかったら、そのノートを見せてくれるかな」
女の子は、少し迷ってから頷いた。
「うん」
小さな手が、ノートを差し出す。
トワは、それを両手で受け取った。
紙の表紙には、色鉛筆の花が描かれている。
その花びらの一枚が、少しだけはみ出していた。
トワは微笑んだ。
「まずは、この花を植えた日から、話してみようか」
女の子が頷く。
その目には、まだ涙が残っていた。
けれど、もう、ひとりで忘れないように頑張らなくてもよかった。
*
女の子を応接室へ案内したあと、トワは執務室へ戻った。
机の上には、白い本が置かれている。
表紙には、彼自身の名前。
トワ。
彼は椅子に腰を下ろし、本を開いた。
最初のページには、いつの間にか文字が増えていた。
陽菜の朝顔。
悠と祖父の約束。
美穂の手紙。
そして、今日、訪ねてきた小さな女の子。
それぞれの物語が、短い言葉で記されていた。
トワは、ページをめくった。
最後のページには、まだ何も書かれていなかった。
彼は、ペンを手に取った。
しばらく考えたあと、ゆっくりと文字を書いた。
――物語は、終わらない。
ペンを置く。
窓の外で、風が吹いた。
記憶樹の葉が揺れ、朝の光が机の上を滑っていく。
トワは、本を閉じた。
その表紙を、そっと撫でる。
「……さて」
立ち上がり、応接室へ向かう。
扉の向こうでは、女の子がノートを開いて待っている。
きっと、まだ話していないことがある。
思い出せない言葉も、うまく説明できない気持ちも。
それでも、物語はそこから始まる。
誰かが話し始めるのを待つ人がいる。
その声を受け取る人がいる。
そして、受け取られた物語は、誰かの中で、また生き始める。
トワは扉を開けた。
「待たせてごめんね」
女の子が顔を上げる。
「ううん」
彼女はノートを抱え直し、少しだけ笑った。
「ねえ、局長さん」
「うん?」
「おばあちゃんの話、いっぱいしてもいい?」
トワは微笑んだ。
「もちろん」
窓の外で、風が吹いた。
記憶樹の葉が、静かに揺れていた。
神籍管理局の書架には、今日も一冊、新しい物語が加わろうとしている。
それは、誰かが忘れたくないと願った物語。
誰かが、誰かを大切に思った証。
そして、まだ終わっていない物語だった。
トワは椅子に座り、ノートを開いた。
「それじゃあ、聞かせてくれるかな」
女の子は、ゆっくりと頷いた。
そして、話し始めた。
窓辺の花のこと。
雨の日のこと。
おばあちゃんの笑顔のこと。
その声を聞きながら、トワは静かにペンを走らせた。
外では、風が吹いている。
どこかで、誰かが新しい一日を始めている。
そして、物語は続いていく。




