↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
111/113

第111話

 執務室へ戻ると、白い本は開いたままだった。


 窓から差し込む光が、机の端を照らしている。


 トワは椅子に腰を下ろし、ページに浮かんだ一行を見つめた。


 ――読む者は、誰の物語を読むのか。


 指先で文字をなぞる。


 紙は、何の変哲もない手触りだった。


 けれど、文字の下には、まだ何かが続いているような気がした。


「局長」


 扉の向こうから、アオイが顔を出した。


「お客様、お待ちですよ」


「うん。分かっている」


「お話は、聞けそうですか?」


 トワは少し考えた。


「聞かなければ、分からないことがあるからね」


 アオイは頷いた。


 それ以上は何も尋ねず、扉を閉めた。


 トワは本を閉じた。


 そして、もう一度、応接室へ向かった。


     *


 女性は、同じ姿勢で座っていた。


 冷めかけたお茶には、もう湯気がない。


 トワが入ってくると、彼女は顔を上げた。


「お待たせしました」


「いえ……」


 女性は、膝の上で両手を重ねた。


「何から話せばいいのか、まだ分からなくて」


「最初からでなくても構いません」


 トワは向かいの椅子に座った。


「覚えているところから、聞かせてください」


 女性は窓の外を見た。


 記憶樹の枝が、風に揺れている。


「私にも、家があったんです」


 ぽつりと、彼女は言った。


「小さな家でした。窓はひとつしかなくて、雨の日には、隅の壁が少し濡れました」


 その声に、かすかな笑みが混じった。


「冬になると、隙間風が入ってきて。夜は毛布を何枚重ねても寒かった」


「それでも、帰る場所だったんですね」


「はい」


 女性は頷いた。


「帰れば、誰かがいましたから」


 しばらく、彼女はその家のことを話した。


 朝、窓から差し込む光。


 軒先に置かれた鉢植え。


 雨が降ると、屋根の一か所から雫が落ちて、桶の中で音を立てたこと。


 大したことではない。


 誰かに話すほどのことでもない。


 けれど、彼女はひとつずつ、確かめるように言葉にした。


「そこに、家族が?」


 トワが尋ねると、女性は静かに頷いた。


「夫と、娘がいました」


 その瞬間、彼女の声から笑みが消えた。


「娘は、よく歌う子でした。歌詞なんて、いつも間違っていたんですけど」


 女性は目を伏せた。


「それでも、毎日歌っていました。朝起きてからも、ご飯を食べているときも。眠くなると、途中で歌が途切れて……」


 唇が、わずかに震えた。


「最後まで聞いたことが、あまりなかったんです」


 トワは黙っていた。


「明日も聞けると思っていましたから」


 女性は、膝の上で指を組み直した。


「明日になれば、また歌う。明日になれば、また話せる。そう思っていました」


 窓の外で、鳥が一声鳴いた。


「でも、ある日、二人とも帰ってこなくなりました」


 女性の目は、窓の向こうに向けられたままだった。


「病気でした。あっという間でした」


 それ以上、詳しいことは話さなかった。


 トワも、尋ねなかった。


 どんな病だったのか。


 どれほど苦しかったのか。


 それを知れば、彼女の悲しみが分かるというわけではない。


 彼女の前から、二人がいなくなった。


 そのことだけが、今も変わらず残っている。


「二人がいなくなってから、家が広くなった気がしました」


 女性は言った。


「何も変わっていないのに。窓も、桶も、鉢植えも、全部同じ場所にあるのに」


 彼女は小さく息を吐いた。


「帰っても、誰もいない。それだけで、あんなに違うんですね」


 トワは、机の上に置かれた湯飲みを見た。


 冷めたお茶の表面に、窓の光が映っていた。


「……そのあと、どうしたんですか?」


「しばらくは、家にいました」


 女性は答えた。


「娘の服も、おもちゃも、そのままにしていました。片づけてしまったら、本当にいなくなってしまう気がして」


 彼女の手が、膝の上で固くなった。


「ある日、娘が好きだった歌を聞いたんです」


 トワは顔を上げた。


「どこかの家から聞こえてきました。知らない子が歌っていたんです。歌詞を間違えていて……」


 女性は、ほんの少し笑った。


「娘と同じところを間違えていました」


 笑みは、すぐに消えた。


「そのとき、思ったんです。あの子の声を、もう一度聞きたいって」


 彼女は顔を上げた。


「記憶を辿ることができると知ったのは、その頃でした」


 神籍管理局の書架。


 記録された人生。


 そこに残る、誰かの声や仕草。


 彼女は最初、ただ一度だけ、娘の記憶を読みたいと思ったのだという。


 歌う声を。


 眠る前の顔を。


 最後まで聞けなかった、あの歌の続きを。


「でも、できませんでした」


 女性は言った。


「娘の記憶は、もう私の中にしかなかった。記録を探しても、あの子の声を、もう一度そのまま取り戻すことはできなかったんです」


 トワは、静かに聞いていた。


「それでも、書架にはたくさんの本がありました」


 女性は続けた。


「誰かの誕生日。家族と食べた夕食。帰りを待っていた夜。何でもない一日……」


 彼女の目が、ゆっくりと伏せられる。


「読んでいる間だけ、私は一人ではありませんでした」


 最初は、一冊だけだった。


 次は、もう一冊。


 誰かの人生を読めば、その人が生きた時間に触れられる気がした。


 知らない家の食卓に座り、知らない町の風を感じ、知らない誰かの笑い声を聞いた。


 そこには、彼女が失ったものと似た温もりがあった。


 けれど、読み終えれば、また一人だった。


「だから、次の本を開きました」


 女性は言った。


「その次も。そのまた次も」


 トワは、彼女の手を見た。


 何かを握っているわけではないのに、指先には力が入っていた。


「やめられなくなったんです」


 長い沈黙があった。


「誰かの記憶を読むたびに、少しだけ、寂しさが薄れる気がしました。でも、すぐに戻ってくる。だから、もっと読まなければと思ったんです」


 女性は目を閉じた。


「そのうち、読むだけでは足りなくなりました」


 彼女は、ゆっくりと言葉を続けた。


「誰かの記憶に触れている間、その人が忘れたくないものを、私も忘れたくないと思うようになりました」


 けれど、彼女は自分の願いと、相手の願いとの境目を見失っていった。


 残しておきたい記憶。


 忘れたい記憶。


 思い出したくないほど苦しい出来事。


 それらもすべて、その人の人生の一部だった。


 それなのに彼女は、自分が大切だと思ったものを、相手も大切にしているはずだと考えてしまった。


「私は……」


 女性は、震える息を吐いた。


「自分が寂しいから、誰かの大切なものまで、勝手に抱え込もうとしたんです」


 トワは、しばらく何も言わなかった。


 彼女のしたことを、寂しさのせいにして許すことはできない。


 失われた記憶も、傷ついた人の心も、彼女が悲しかったからといって元に戻るわけではない。


 けれど。


 彼女が何を求めていたのか。


 その始まりにあったものまで、見ないふりをする必要もない。


「あなたは、忘れたくなかったんですね」


 トワは言った。


 女性は顔を上げた。


「……はい」


「娘さんのことも。家族と暮らした時間も」


 女性の目に、涙が浮かんだ。


「はい」


「そして、誰かがいなくなったあとも、自分がここにいることを、確かめたかった」


 女性は答えなかった。


 ただ、何度も小さく頷いた。


 トワは窓の外を見た。


 記憶樹の葉が、光を受けて揺れている。


 どの葉も、同じ形ではなかった。


 生まれたばかりの葉もあれば、古くなり、色を変えた葉もある。


 風が吹けば、枝から離れていくものもある。


 それでも、木はそこに立っていた。


「……忘れることは、悪いことなんでしょうか」


 女性が尋ねた。


 トワは、すぐには答えなかった。


 忘れたくないものがある。


 忘れてしまったものもある。


 思い出すたびに痛む記憶もあれば、いつの間にか輪郭が薄れ、声も顔も曖昧になってしまう記憶もある。


 それでも、確かにそこにあった時間まで、なくなるわけではないのかもしれない。


「忘れたくないと思うことは、悪いことではないと思います」


 トワは静かに言った。


「でも、忘れないために、誰かの時間を奪ってはいけない」


 女性は、目を伏せた。


「……はい」


「それに」


 トワは、少しだけ声を和らげた。


「忘れてしまったからといって、大切だった時間まで、なかったことになるわけではありません」


 女性の頬を、一筋の涙が伝った。


 彼女はそれを拭わなかった。


 長いあいだ、何かを言おうとしていた。


 けれど、言葉はなかなか出てこなかった。


 やがて、彼女は小さく首を振った。


「私には、まだ……分かりません」


「ええ」


 トワは頷いた。


「すぐに分からなくてもいいんです」


 女性は、初めて少しだけ、肩の力を抜いた。


 そのとき。


 廊下の向こうで、ページをめくる音がした。


 さらり。


 二人は同時に顔を上げた。


 応接室の扉は閉じている。


 それでも、音は確かに聞こえた。


 トワは立ち上がった。


「少し、見てきます」


 廊下へ出ると、書架の奥に光が差していた。


 机の上に置いてきた白い本が、いつの間にか書架の一番手前に移っている。


 表紙には、トワの名前。


 その本が、ゆっくりと開いた。


 白かったページに、文字が浮かび上がっていく。


 ――忘れたくないと願うこと。


 ――忘れられたくないと願うこと。


 その下には、もう一行あった。


 ――それでも、物語は誰のものなのか。


 トワは、息を止めた。


 背後から、女性の足音が聞こえた。


「……私の物語は」


 彼女は、開かれた本を見つめた。


「ここに残るのでしょうか」


 トワは、すぐには答えなかった。


 彼女の物語を残すことはできる。


 けれど、それだけで、彼女がしたことが消えるわけではない。


 誰かを傷つけた事実も。


 失われた記憶も。


 そして、彼女自身が失った時間も。


 すべてを抱えたまま、彼女の物語は続いていく。


 トワは、白いページに手を伸ばした。


「あなたが、自分のしたことから目をそらさずに生きていくなら」


 静かに言った。


「ここに残す意味は、あると思います」


 女性は、何も言わなかった。


 ただ、開かれた本を見つめていた。


 そのとき、ページの隅に、小さな文字が現れた。


 まだ、物語は終わっていない。


 トワは、その一行を見つめた。


 そして、初めて気づいた。


 最後の依頼とは、誰かの人生を終わらせることではない。


 終わったと思っていた物語の、その先を見届けることなのかもしれない。


 窓の外で、風が吹いた。


 白いページが一枚、静かにめくれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。