第111話
執務室へ戻ると、白い本は開いたままだった。
窓から差し込む光が、机の端を照らしている。
トワは椅子に腰を下ろし、ページに浮かんだ一行を見つめた。
――読む者は、誰の物語を読むのか。
指先で文字をなぞる。
紙は、何の変哲もない手触りだった。
けれど、文字の下には、まだ何かが続いているような気がした。
「局長」
扉の向こうから、アオイが顔を出した。
「お客様、お待ちですよ」
「うん。分かっている」
「お話は、聞けそうですか?」
トワは少し考えた。
「聞かなければ、分からないことがあるからね」
アオイは頷いた。
それ以上は何も尋ねず、扉を閉めた。
トワは本を閉じた。
そして、もう一度、応接室へ向かった。
*
女性は、同じ姿勢で座っていた。
冷めかけたお茶には、もう湯気がない。
トワが入ってくると、彼女は顔を上げた。
「お待たせしました」
「いえ……」
女性は、膝の上で両手を重ねた。
「何から話せばいいのか、まだ分からなくて」
「最初からでなくても構いません」
トワは向かいの椅子に座った。
「覚えているところから、聞かせてください」
女性は窓の外を見た。
記憶樹の枝が、風に揺れている。
「私にも、家があったんです」
ぽつりと、彼女は言った。
「小さな家でした。窓はひとつしかなくて、雨の日には、隅の壁が少し濡れました」
その声に、かすかな笑みが混じった。
「冬になると、隙間風が入ってきて。夜は毛布を何枚重ねても寒かった」
「それでも、帰る場所だったんですね」
「はい」
女性は頷いた。
「帰れば、誰かがいましたから」
しばらく、彼女はその家のことを話した。
朝、窓から差し込む光。
軒先に置かれた鉢植え。
雨が降ると、屋根の一か所から雫が落ちて、桶の中で音を立てたこと。
大したことではない。
誰かに話すほどのことでもない。
けれど、彼女はひとつずつ、確かめるように言葉にした。
「そこに、家族が?」
トワが尋ねると、女性は静かに頷いた。
「夫と、娘がいました」
その瞬間、彼女の声から笑みが消えた。
「娘は、よく歌う子でした。歌詞なんて、いつも間違っていたんですけど」
女性は目を伏せた。
「それでも、毎日歌っていました。朝起きてからも、ご飯を食べているときも。眠くなると、途中で歌が途切れて……」
唇が、わずかに震えた。
「最後まで聞いたことが、あまりなかったんです」
トワは黙っていた。
「明日も聞けると思っていましたから」
女性は、膝の上で指を組み直した。
「明日になれば、また歌う。明日になれば、また話せる。そう思っていました」
窓の外で、鳥が一声鳴いた。
「でも、ある日、二人とも帰ってこなくなりました」
女性の目は、窓の向こうに向けられたままだった。
「病気でした。あっという間でした」
それ以上、詳しいことは話さなかった。
トワも、尋ねなかった。
どんな病だったのか。
どれほど苦しかったのか。
それを知れば、彼女の悲しみが分かるというわけではない。
彼女の前から、二人がいなくなった。
そのことだけが、今も変わらず残っている。
「二人がいなくなってから、家が広くなった気がしました」
女性は言った。
「何も変わっていないのに。窓も、桶も、鉢植えも、全部同じ場所にあるのに」
彼女は小さく息を吐いた。
「帰っても、誰もいない。それだけで、あんなに違うんですね」
トワは、机の上に置かれた湯飲みを見た。
冷めたお茶の表面に、窓の光が映っていた。
「……そのあと、どうしたんですか?」
「しばらくは、家にいました」
女性は答えた。
「娘の服も、おもちゃも、そのままにしていました。片づけてしまったら、本当にいなくなってしまう気がして」
彼女の手が、膝の上で固くなった。
「ある日、娘が好きだった歌を聞いたんです」
トワは顔を上げた。
「どこかの家から聞こえてきました。知らない子が歌っていたんです。歌詞を間違えていて……」
女性は、ほんの少し笑った。
「娘と同じところを間違えていました」
笑みは、すぐに消えた。
「そのとき、思ったんです。あの子の声を、もう一度聞きたいって」
彼女は顔を上げた。
「記憶を辿ることができると知ったのは、その頃でした」
神籍管理局の書架。
記録された人生。
そこに残る、誰かの声や仕草。
彼女は最初、ただ一度だけ、娘の記憶を読みたいと思ったのだという。
歌う声を。
眠る前の顔を。
最後まで聞けなかった、あの歌の続きを。
「でも、できませんでした」
女性は言った。
「娘の記憶は、もう私の中にしかなかった。記録を探しても、あの子の声を、もう一度そのまま取り戻すことはできなかったんです」
トワは、静かに聞いていた。
「それでも、書架にはたくさんの本がありました」
女性は続けた。
「誰かの誕生日。家族と食べた夕食。帰りを待っていた夜。何でもない一日……」
彼女の目が、ゆっくりと伏せられる。
「読んでいる間だけ、私は一人ではありませんでした」
最初は、一冊だけだった。
次は、もう一冊。
誰かの人生を読めば、その人が生きた時間に触れられる気がした。
知らない家の食卓に座り、知らない町の風を感じ、知らない誰かの笑い声を聞いた。
そこには、彼女が失ったものと似た温もりがあった。
けれど、読み終えれば、また一人だった。
「だから、次の本を開きました」
女性は言った。
「その次も。そのまた次も」
トワは、彼女の手を見た。
何かを握っているわけではないのに、指先には力が入っていた。
「やめられなくなったんです」
長い沈黙があった。
「誰かの記憶を読むたびに、少しだけ、寂しさが薄れる気がしました。でも、すぐに戻ってくる。だから、もっと読まなければと思ったんです」
女性は目を閉じた。
「そのうち、読むだけでは足りなくなりました」
彼女は、ゆっくりと言葉を続けた。
「誰かの記憶に触れている間、その人が忘れたくないものを、私も忘れたくないと思うようになりました」
けれど、彼女は自分の願いと、相手の願いとの境目を見失っていった。
残しておきたい記憶。
忘れたい記憶。
思い出したくないほど苦しい出来事。
それらもすべて、その人の人生の一部だった。
それなのに彼女は、自分が大切だと思ったものを、相手も大切にしているはずだと考えてしまった。
「私は……」
女性は、震える息を吐いた。
「自分が寂しいから、誰かの大切なものまで、勝手に抱え込もうとしたんです」
トワは、しばらく何も言わなかった。
彼女のしたことを、寂しさのせいにして許すことはできない。
失われた記憶も、傷ついた人の心も、彼女が悲しかったからといって元に戻るわけではない。
けれど。
彼女が何を求めていたのか。
その始まりにあったものまで、見ないふりをする必要もない。
「あなたは、忘れたくなかったんですね」
トワは言った。
女性は顔を上げた。
「……はい」
「娘さんのことも。家族と暮らした時間も」
女性の目に、涙が浮かんだ。
「はい」
「そして、誰かがいなくなったあとも、自分がここにいることを、確かめたかった」
女性は答えなかった。
ただ、何度も小さく頷いた。
トワは窓の外を見た。
記憶樹の葉が、光を受けて揺れている。
どの葉も、同じ形ではなかった。
生まれたばかりの葉もあれば、古くなり、色を変えた葉もある。
風が吹けば、枝から離れていくものもある。
それでも、木はそこに立っていた。
「……忘れることは、悪いことなんでしょうか」
女性が尋ねた。
トワは、すぐには答えなかった。
忘れたくないものがある。
忘れてしまったものもある。
思い出すたびに痛む記憶もあれば、いつの間にか輪郭が薄れ、声も顔も曖昧になってしまう記憶もある。
それでも、確かにそこにあった時間まで、なくなるわけではないのかもしれない。
「忘れたくないと思うことは、悪いことではないと思います」
トワは静かに言った。
「でも、忘れないために、誰かの時間を奪ってはいけない」
女性は、目を伏せた。
「……はい」
「それに」
トワは、少しだけ声を和らげた。
「忘れてしまったからといって、大切だった時間まで、なかったことになるわけではありません」
女性の頬を、一筋の涙が伝った。
彼女はそれを拭わなかった。
長いあいだ、何かを言おうとしていた。
けれど、言葉はなかなか出てこなかった。
やがて、彼女は小さく首を振った。
「私には、まだ……分かりません」
「ええ」
トワは頷いた。
「すぐに分からなくてもいいんです」
女性は、初めて少しだけ、肩の力を抜いた。
そのとき。
廊下の向こうで、ページをめくる音がした。
さらり。
二人は同時に顔を上げた。
応接室の扉は閉じている。
それでも、音は確かに聞こえた。
トワは立ち上がった。
「少し、見てきます」
廊下へ出ると、書架の奥に光が差していた。
机の上に置いてきた白い本が、いつの間にか書架の一番手前に移っている。
表紙には、トワの名前。
その本が、ゆっくりと開いた。
白かったページに、文字が浮かび上がっていく。
――忘れたくないと願うこと。
――忘れられたくないと願うこと。
その下には、もう一行あった。
――それでも、物語は誰のものなのか。
トワは、息を止めた。
背後から、女性の足音が聞こえた。
「……私の物語は」
彼女は、開かれた本を見つめた。
「ここに残るのでしょうか」
トワは、すぐには答えなかった。
彼女の物語を残すことはできる。
けれど、それだけで、彼女がしたことが消えるわけではない。
誰かを傷つけた事実も。
失われた記憶も。
そして、彼女自身が失った時間も。
すべてを抱えたまま、彼女の物語は続いていく。
トワは、白いページに手を伸ばした。
「あなたが、自分のしたことから目をそらさずに生きていくなら」
静かに言った。
「ここに残す意味は、あると思います」
女性は、何も言わなかった。
ただ、開かれた本を見つめていた。
そのとき、ページの隅に、小さな文字が現れた。
まだ、物語は終わっていない。
トワは、その一行を見つめた。
そして、初めて気づいた。
最後の依頼とは、誰かの人生を終わらせることではない。
終わったと思っていた物語の、その先を見届けることなのかもしれない。
窓の外で、風が吹いた。
白いページが一枚、静かにめくれた。




