第110話
朝、神籍管理局の窓辺に、淡い光が差し込んでいた。
記憶樹の葉は、昨夜の風を忘れたように静かだった。
アオイが湯を沸かし、レンが書架の間を歩いている。
いつもと変わらない朝だった。
ただひとつ。
トワの机の上に、一冊の白い本が置かれていることを除けば。
表紙には、彼自身の名前。
トワ。
昨夜から、何度も手に取っていた。
開いても、何も書かれていない。
最初のページも。
真ん中のページも。
最後のページにあるのは、たった一行。
最後の依頼。
それだけだった。
「局長、またその本を見ているんですか?」
アオイが湯飲みを置いた。
「ああ」
「何か分かりました?」
「いや。何も」
トワは本を閉じた。
「何も書いていないからね」
「でも、局長のお名前があるんでしょう?」
「そうなんだ」
アオイは不思議そうに本を眺めた。
「だったら、局長の物語なんじゃないですか?」
トワは顔を上げた。
アオイは、それ以上何も言わず、空になった茶筒を持って給湯室へ戻っていった。
残されたトワは、閉じた本に目を落とした。
自分の物語。
そう言われても、ぴんとこなかった。
これまで、数えきれないほどの本を読んできた。
誰かが生まれた日。
誰かが別れた日。
伝えられなかった言葉も、忘れられない約束も、誰にも知られずに終わった人生も。
その一つひとつを受け取り、書架へ送り届けてきた。
けれど、自分のこととなると、何を書けばいいのか分からない。
トワは窓の外を見た。
記憶樹の枝先に、小さな鳥がとまっていた。
しばらく辺りを見回したあと、鳥は羽を広げ、どこかへ飛び去っていった。
その姿を見送っていると、廊下から足音が聞こえた。
「局長」
レンだった。
「玄関に、お客様がいらしています」
「予約は?」
「ありません」
「依頼内容は?」
「それが……」
レンは少し言いよどんだ。
「局長に、直接お会いしたいと」
トワは椅子から立ち上がった。
「分かった。行こう」
白い本を机に残し、玄関へ向かう。
廊下の窓から、朝の光が差し込んでいた。
床に伸びた光の帯を踏みながら、トワは歩いた。
玄関の扉を開ける。
そこに立っていた人物を見て、トワは足を止めた。
黒い衣。
長い髪。
静かな眼差し。
第零書架で出会った、あの女性だった。
彼女は、以前と同じようにトワを見つめていた。
けれど、その手に、あの白い本はない。
「……お久しぶりです」
女性が言った。
トワは、しばらく返事ができなかった。
あの場所で別れたとき、彼女はもう、誰かの物語を勝手に読むことはしないと約束した。
悠の記憶を奪ってしまったことも、自分がしてきたことも、忘れずに抱えていくと。
それから、どうしていたのだろう。
「どうして、ここへ?」
ようやく尋ねると、女性は目を伏せた。
「お願いがあって来ました」
「お願い?」
「はい」
女性は、両手を胸の前で重ねた。
「今度は、私の話を聞いていただきたいんです」
トワは、彼女の顔を見つめた。
彼女が何を話そうとしているのか。
まだ分からなかった。
けれど、あの第零書架で、誰にも読まれないまま積み重なっていた本のことを思い出した。
誰かに読んでほしいと願いながら。
誰かに知ってほしいと願いながら。
その願いを、どこにも届けられなかった物語。
「……分かりました」
トワは扉を大きく開いた。
「こちらへ」
女性は一瞬、戸惑ったように顔を上げた。
それから、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
応接室へ向かう途中、彼女は何度か書架を振り返った。
そこには、無数の本が並んでいる。
誰かの生きた証。
誰かが残した言葉。
そして、誰かに受け取られた物語。
女性は、その背表紙を見つめながら、ぽつりと言った。
「……こんなに、たくさんあるんですね」
「ええ」
トワは答えた。
「どれも、誰かの物語ですから」
応接室に着くと、女性は椅子に腰を下ろした。
アオイが新しいお茶を用意し、レンは静かに部屋を出ていった。
湯飲みから、湯気が立ちのぼる。
女性はそれを見つめていた。
「私には」
やがて、彼女が口を開いた。
「自分の物語がありませんでした」
トワは、黙って聞いていた。
「誰かの記憶を読んでいる間だけ、私はそこにいられたんです」
女性の指が、湯飲みの縁に触れた。
「知らない人の笑い声も、誰かを待つ時間も、別れの悲しみも。読んでいる間は、私もその人たちのそばにいるような気がしました」
彼女は、目を伏せた。
「でも、本当は違ったんですね」
部屋の中に、静かな沈黙が落ちた。
「私は、誰かの物語を読んでいたんじゃない。ただ、自分の寂しさを埋めるために、誰かの人生を使っていたんです」
トワはすぐには答えなかった。
彼女がその言葉を口にするまでに、どれだけの時間が必要だったのか。
それを、簡単な慰めで覆ってしまいたくなかった。
「それで……」
女性は、ようやく顔を上げた。
「私の物語を、書架に残していただけませんか」
トワは彼女を見つめた。
「あなたの物語を?」
「はい」
女性の声は、かすかに震えていた。
「私が何をしたのか。誰の記憶を傷つけたのか。どんなことを考えて、どうしてあんなことをしたのか」
彼女は膝の上で手を握った。
「それを、なかったことにしたくないんです」
窓の外で、風が吹いた。
記憶樹の葉が揺れ、淡い光が床の上で動いた。
「許してほしいわけではありません」
女性は続けた。
「忘れたいわけでもありません。ただ……」
そこで、言葉が止まった。
何かを言おうとして、うまく言葉にできない。
トワは、その続きを待った。
しばらくして、女性は小さく息を吸った。
「私が生きていたことまで、なかったことになってしまうのが……怖いんです」
トワは、机の上の湯飲みに目を落とした。
温かな湯気が、ゆっくりと薄れていく。
彼女は、誰かの記憶を奪った。
その事実は消えない。
傷ついた人の苦しみも、なかったことにはできない。
けれど、彼女が何を恐れ、何を求めていたのか。
それを知ることまで、拒まなければならないのだろうか。
トワは、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなたの物語を、読ませてください」
女性の目が揺れた。
「本当に、いいんですか」
「はい」
トワは頷いた。
「ただし、あなたのためだけに読むのではありません」
女性は黙って彼を見た。
「あなたが傷つけた人たちの物語も、ここにはあります。あなたの話だけで、それらを塗り替えることはできません」
「……分かっています」
「それでも、あなたの話を聞きたいと思います」
トワは、静かに続けた。
「誰かを傷つけたことと、その人が生きてきたことは、どちらか一つだけが残るものではないと思うからです」
女性は唇を噛んだ。
やがて、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
そのときだった。
机の上に置かれていた白い本が、かすかに震えた。
トワは顔を上げた。
神籍管理局の奥。
自分の机に残してきた、あの本。
表紙に刻まれた名前が、脳裏に浮かぶ。
トワ。
そして、最後のページに記された言葉。
最後の依頼。
トワは、ゆっくりと立ち上がった。
「少し、待っていてください」
女性が不安そうに顔を上げる。
「……何か?」
「確かめたいことがあります」
トワは応接室を出た。
廊下を歩き、執務室へ戻る。
机の上では、白い本が静かに開いていた。
昨夜まで何もなかった最初のページ。
そこに、一行だけ文字が浮かんでいる。
――読む者は、誰の物語を読むのか。
トワは、その言葉を見つめた。
やがて、指先をページに置いた。
紙の向こうから、かすかな風が吹いてきた。




