第109話
# 第三部 第六章 静かな足音
## 第十四話 届けられなかった手紙
女性は、玄関先でしばらく立ち尽くしていた。
両手に、古びた封筒を握っている。
封筒の角は丸くなり、表面には細かな皺が寄っていた。何度も手に取り、何度も元に戻したのだろう。
それでも、捨てることはできなかった。
「どうぞ。こちらへ」
トワが声をかけると、女性は小さく頭を下げた。
「……はい」
応接室へ案内されても、封筒は膝の上から離れなかった。
アオイが温かいお茶を運んでくる。
「ありがとうございます」
女性は湯飲みを両手で包んだ。立ちのぼる湯気に目を落とし、ひと口だけ飲む。
けれど、封筒を握る指は緩まなかった。
「お名前を伺っても?」
「美穂です」
「美穂さんですね」
トワは頷き、彼女の向かいに腰を下ろした。
「この手紙を、届けたいんですね」
美穂は答えなかった。
膝の上で、封筒の端をそっと撫でる。
やがて、唇がわずかに動いた。
「……もう、届ける相手はいません」
トワの視線が、封筒から彼女の顔へ移った。
「亡くなられたんですか」
「はい」
「いつ頃……?」
「三年前です」
美穂は、封筒を見つめたまま言った。
「父です」
それきり、言葉が途切れた。
窓の外で風が吹いた。
記憶樹の葉が、枝先でかすかに揺れている。
しばらくして、美穂が口を開いた。
「父とは、最後の半年……ほとんど話をしませんでした」
トワは何も言わず、続きを待った。
「喧嘩したんです。くだらないことで」
美穂は困ったように笑った。
「本当に、くだらないことで。今思えば、どうしてあんなことで怒ったんだろうって……」
笑みが消えた。
「最後に電話があった日も、私は出ませんでした」
湯飲みから、細い湯気が立ちのぼっている。
「あとで気づいたんです。でも、折り返しませんでした」
美穂の指が、封筒の皺をなぞった。
「その日の夜、父は亡くなりました」
アオイが静かに目を伏せた。
レンも、何も言わなかった。
誰かが慰めの言葉を口にすれば、彼女はきっと、また笑ってしまうのだろう。
大丈夫です、と。
そんなことはないです、と。
そうして、三年間しまい込んできたものを、もう一度胸の奥へ押し戻してしまうのかもしれない。
「この手紙は……その翌日に書きました」
美穂が封筒を見つめる。
「三年間、ずっと持っていたんです」
トワは、彼女の手元に目を落とした。
古びた封筒。
けれど、中の便箋は、まだ誰にも渡されていない。
「どうして、今だったんでしょうね」
尋ねる声は、静かだった。
美穂は少し考えた。
「分かりません」
それから、窓の外へ目を向けた。
「ただ、今日……もう、持っていられないと思ったんです」
手放したいのに、手放せない。
届けたいのに、届ける相手がいない。
その二つの思いが、彼女をここまで連れてきたのだろう。
「美穂さん」
トワは言った。
「届けたい言葉は、ここに全部書いてありますか?」
美穂は首を横に振った。
「……分かりません」
その答えを、トワは急かさなかった。
言葉にできることもある。
何度書き直しても、紙の上には残せないこともある。
伝えたかった言葉ほど、口にする前に時間が過ぎてしまうこともある。
「見せていただいても?」
美穂はしばらく迷っていた。
やがて、封筒を両手で差し出した。
トワは受け取り、そっと中身を取り出した。
一枚の便箋。
折り目に沿って開くと、そこには短い文章が並んでいた。
トワは、黙って目を通した。
最後まで読み終えてから、便箋を丁寧に畳んだ。
そこには、こう書かれていた。
お父さんへ。
あの時は、ごめんなさい。
ずっと謝りたかった。
本当は、怒ってなんかいなかった。
ただ、怖かった。
お父さんが年を取っていくことが。
いつかいなくなることが。
だから、見たくなかった。
ごめんなさい。
ありがとう。
大好きでした。
最後に、小さく署名があった。
美穂より。
「……これを」
美穂が顔を上げた。
「父に届けたいんです」
「はい」
トワは便箋を封筒へ戻さず、机の上に置いた。
「でも」
美穂の声がかすれた。
「もう、いないから」
トワは、すぐには答えなかった。
以前の自分なら、神籍管理局の力を使えば、何かできると思ったかもしれない。
残された記憶を辿り、亡くなった人のもとへ言葉を運ぶ。
そうすれば、すべてが少しだけ救われるのではないか。
けれど、今は違う。
トワは机の上の便箋を見つめた。
「美穂さん」
「……はい」
「この手紙を、お父さんへ届けることはできます」
美穂が息を呑んだ。
膝の上で、両手がぎゅっと握られる。
「本当ですか?」
「ただ、その前に」
トワは、彼女の目を見た。
「美穂さん自身が、この手紙を読んであげてほしいんです」
「……私が?」
「はい」
美穂は戸惑ったように、便箋を見た。
「お父さんに向けて書いた言葉ですから」
トワは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「お父さんの代わりに読むんじゃなくて。書いたあなた自身が、その言葉を最後まで受け取ってあげてほしいんです」
美穂は何も言わなかった。
窓の外で、葉が擦れ合う音がした。
やがて彼女は、机の上の便箋を手に取った。
「……読んでも、いいですか」
「もちろんです」
美穂は紙を広げた。
最初の一行を読むまでに、少し時間がかかった。
「お父さんへ」
声が震えた。
「あの時は、ごめんなさい」
途中で、何度も言葉が詰まった。
涙が便箋に落ちそうになるたび、美穂は顔を上げ、息を整えた。
それでも、読むのをやめなかった。
最後の一行にたどり着く。
「……大好きでした」
その言葉を口にした瞬間、美穂の肩が大きく震えた。
握りしめた便箋が、かすかに音を立てる。
トワは何も言わなかった。
アオイも、レンも。
ただ、彼女が泣けるだけの時間を、そこに残していた。
どれくらい、そうしていただろう。
やがて美穂は、便箋を胸に抱いた。
濡れた頬を拭い、何かを確かめるように、もう一度そこへ目を落とした。
「……届いた気がします」
トワは微笑んだ。
「そうですか」
「はい」
美穂は小さく頷いた。
その顔には、悲しみが残っていた。
けれど、先ほどまでの、何かを必死に押さえ込んでいるような表情は、少しだけ和らいでいた。
帰り際、美穂は何度も頭を下げた。
封筒を胸元にしまい、扉の向こうへ消えていく。
閉じた扉の前で、トワはしばらく立っていた。
やがて、応接室へ戻る。
机の上には、飲みかけのお茶が三つ。
美穂の湯飲みには、まだ少しだけ温もりが残っていた。
書架の奥で、小さな音がした。
ぱたん。
一冊の本が閉じる音だった。
トワは顔を上げた。
新しい本が一冊、書架に並んでいる。
表紙には、こう記されていた。
『届けられなかった手紙』
トワはその本を手に取り、最初のページを開いた。
そこには、一行だけ書かれていた。
言葉は、届いた瞬間に終わるのではない。
誰かの中で生き始めた時、初めて物語になる。
トワは、その文字をしばらく見つめていた。
そして、静かに本を閉じた。
書架の奥へ目を向ける。
見慣れた本の背表紙が、薄い灯りの中に並んでいた。
陽菜の朝顔。
悠と祖父の約束。
そして、これまで出会った人々の物語。
どれも違う人生だった。
けれど、誰かが誰かを思い、言葉を残し、時には伝えられないまま、それでも生きてきた。
トワは、そっと息を吐いた。
「……最後が近いんだね」
誰も答えなかった。
そのとき。
書架の奥から、風が吹いた。
頬を撫でるほどの、かすかな風だった。
一冊の本のページが、ひとりでにめくれる。
白い表紙。
題名はない。
ただ、表紙の中央に、トワ自身の名前が刻まれていた。
トワ。
彼は、その本を手に取った。
以前なら、戸惑っていたかもしれない。
けれど今は、逃げずに見つめることができた。
表紙を開く。
最初のページには、何も書かれていない。
次のページにも。
その先にも、白い紙が続いていた。
ただ、最後のページにだけ、一行があった。
最後の依頼。
トワは、その文字を指先でなぞった。
紙は、ひんやりとしていた。
しばらくして、彼は本を閉じた。
書架の向こうで、風がもう一度、静かに葉を揺らした。




