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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

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第108話

女性は、玄関先でしばらく立ち尽くしていた。


 古びた封筒を両手で握っている。


 何度も触れたのだろう。


 封筒の角は少し丸くなり、紙には細かな皺がついていた。


「どうぞ。」


 トワが声をかける。


「こちらへ。」


「……はい。」


 女性は小さく頭を下げ、応接室へ入った。


 椅子に座っても、封筒は膝の上から離れない。


 アオイが温かいお茶を出す。


「ありがとうございます。」


 一口飲む。


 それでも、女性の指は封筒を握ったままだった。


「お名前を伺っても?」


 トワが尋ねる。


「美穂です。」


「美穂さん。」


 トワはゆっくり頷いた。


「この手紙を、届けたいんですね。」


 美穂は答えなかった。


 しばらく俯いていたが、やがて小さな声で言った。


「……もう、届ける相手はいません。」


 トワの手が止まった。


「亡くなられたんですか?」


「はい。」


「いつ頃……?」


「三年前です。」


 美穂は封筒を見つめる。


「父です。」


 その一言だけだった。


 それ以上は、なかなか続かなかった。


 窓の外では風が吹いている。


 記憶樹の葉が、静かに揺れていた。


「父とは。」


 美穂がぽつりと話し始める。


「最後の半年。」


「ほとんど話をしませんでした。」


 トワは黙って聞く。


「喧嘩したんです。」


「くだらないことで。」


「本当に。」


「今思えば、どうしてあんなことで怒ったんだろうって思うくらい。」


 少し笑う。


 でも、その笑顔はすぐ消えた。


「最後に電話があった日も。」


「私は出ませんでした。」


 部屋が静かになる。


「あとで気づきました。」


「でも。」


「折り返しませんでした。」


 美穂は封筒を撫でた。


「その日の夜。」


「父は亡くなりました。」


 アオイが静かに目を伏せる。


 レンも何も言わない。


「この手紙は。」


 美穂が言う。


「その翌日に書きました。」


「三年間。」


「ずっと持っていたんです。」


 トワは尋ねる。


「どうして、今?」


 美穂は少し考えた。


「分かりません。」


「ただ。」


「今日。」


「もう、持っていられないと思ったんです。」


 トワは封筒を見る。


「届けたい言葉は。」


「ここに全部書いてありますか?」


 美穂は首を横に振った。


「……分かりません。」


 その答えが、トワには分かった。


 手紙を書くということは。


 言葉を選ぶことだ。


 けれど、本当に伝えたかったことほど。


 紙の上には書けないことがある。


「見せていただいても?」


 トワが尋ねる。


 美穂は少し迷ってから、封筒を差し出した。


 中には、一枚の便箋。


 折り畳まれた紙を開く。


お父さんへ。


あの時は、ごめんなさい。


ずっと謝りたかった。


本当は、怒ってなんかいなかった。


ただ、怖かった。


お父さんが年を取っていくことが。


いつかいなくなることが。


だから、見たくなかった。


ごめんなさい。


ありがとう。


大好きでした。


 そこまでだった。


 最後に署名がある。


美穂より。


 トワは便箋を静かに畳んだ。


「……これを。」


「父に届けたいんです。」


「はい。」


 美穂は涙を拭う。


「でも。」


「もういないから。」


 トワは、少しだけ考えた。


 以前の自分なら。


 神籍管理局の力を使えば、何かできると思ったかもしれない。


 記憶を辿って。


 死者のもとへ。


 言葉を届ける。


 けれど。


 今は違う。


「美穂さん。」


「はい。」


「この手紙。」


「お父さんへ届けることはできます。」


 美穂が顔を上げる。


「でも。」


 トワは続けた。


「それより先に。」


「美穂さん自身が。」


「この手紙を読んであげてください。」


「……私が?」


「はい。」


 美穂は戸惑ったようにトワを見る。


「お父さんに向けて書いた言葉なら。」


「まず、お父さんの代わりに読むんじゃなくて。」


「書いたあなた自身が。」


「その言葉を、最後まで受け取ってあげてほしいんです。」


 美穂は何も言わなかった。


 ただ。


 便箋を両手で持ち直した。


「……読んでいいですか。」


「もちろん。」


 美穂は、一行目から読み始めた。


 声は震えていた。


 何度も詰まった。


 途中で涙が落ちた。


 それでも。


 最後まで読んだ。


「……大好きでした。」


 最後の言葉を口にした瞬間。


 美穂の肩が大きく震えた。


 トワは何も言わなかった。


 ただ、そこにいた。


 しばらくして。


 美穂が便箋を胸に抱いた。


「……届いた気がします。」


 トワは微笑んだ。


「そうですか。」


「はい。」


 その時。


 書架の奥で。


 小さな音がした。


 ぱたん。


 一冊の本が閉じる音。


 美穂は気づかなかった。


 けれどトワには分かった。


 これは。


 誰かへ届けるためだけの手紙ではなかった。


 自分自身へ、三年間ずっと届けられなかった言葉だったのだ。


 女性が帰ったあと。


 トワは一人で書架の前に立った。


 新しい本が一冊、静かに並んでいる。


 表紙には。


『届けられなかった手紙』


 トワはその本を手に取った。


 最初のページには、一行だけ。


言葉は、届いた瞬間に終わるのではない。


誰かの中で生き始めた時、初めて物語になる。


 トワは静かに本を閉じた。


 そして、書架の奥を見る。


 そこに。


 また一冊。


 白い本が現れていた。


 題名はない。


 ただ。


 表紙の中央に、トワ自身の名前が刻まれていた。


トワ


 トワは、その本を見つめた。


 今度は驚かなかった。


「……最後が近いんだね。」


 誰も答えない。


 けれど。


 書架の奥から。


 風が一度だけ吹いた。


 ページが一枚。


 静かにめくれた。


 そこには。


 まだ誰にも読まれていない一行があった。


最後の依頼。


 トワは、その文字を見つめた。


 そして。


 ゆっくりと本を閉じた。

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