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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

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103/113

第103話

その夜。


 神籍管理局には、珍しく誰も話をしていなかった。


 書架の前に置かれた丸い机。


 湯のみから立ちのぼる湯気だけが、ゆっくりと揺れている。


 白紙の本は閉じられたまま、机の中央に置かれていた。


 最初に口を開いたのはレンだった。


「……結局。」


「閲覧者って何なんだ。」


 腕を組み、天井を見上げる。


「本を読むだけなら、俺たちだって読んでる。」


「何が違う?」


 老人はすぐには答えなかった。


 静かに湯のみを持ち上げ、一口だけ茶を含む。


 それから、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。


「局長。」


「本を読むとは、どういうことだと思いますか。」


 突然の問いに、トワは少し考え込む。


「……物語を知ること、でしょうか。」


 老人は微笑む。


「半分は正しい答えです。」


「では、残りの半分は?」


 アオイが身を乗り出す。


「本を読むということは。」


 老人は書架へ目を向けた。


「誰かの人生を、自分の中へ迎え入れることです。」


 部屋が静まり返る。


「だから。」


「読むという行為には責任があります。」


「その人の悲しみも。」


「喜びも。」


「願いも。」


「受け止める覚悟が必要なのです。」


 トワは、星見町のことを思い出していた。


 七海の涙。


 源蔵の「おかえり」。


 陽菜が書き終えた日記。


 どれも、本として読むだけでは足りない。


 その人の人生に触れることだった。


 老人は続ける。


「しかし。」


「覚悟なく読む者もいます。」


 レンが眉をひそめる。


「どういうことだ?」


「悲しみだけを集める者。」


「喜びだけを欲しがる者。」


「誰かの人生を、自分の都合で切り取る者。」


 アオイが静かにつぶやく。


「……記録を、利用する人。」


 老人は頷いた。


「ええ。」


「本来の意味を失わせてしまう読み方です。」


 トワは、ふと白紙の本へ視線を落とした。


「その人が……。」


「閲覧者?」


「まだ分かりません。」


 老人は静かに答える。


「ですが。」


「書架の外から本を読める者がいるのなら。」


「その者は。」


「この世界の理を、私たちより深く知っている可能性があります。」


 その時だった。


 窓の外で、ふっと風が止んだ。


 蝉の声も消える。


 あまりにも静かな夜。


 さくらが、書架の奥を見つめた。


「……いた。」


 全員が振り返る。


「誰が?」


 トワが尋ねる。


 さくらは小さく首を傾げる。


「分からない。」


「でも。」


「悲しそう。」


 その言葉と同時に。


 書架の一番高い棚から、一冊の本が音もなく床へ落ちた。


 とさり。


 トワは急いで拾い上げる。


 表紙には題名がない。


 開いてみる。


 白紙。


 一ページ目。


 二ページ目。


 三ページ目。


 何も書かれていない。


「空っぽ……。」


 老人は、その本を見た瞬間、息を止めた。


 そして、ゆっくりと目を閉じる。


「違います。」


「え?」


「書かれていたのです。」


 その声は震えていた。


「誰かに、読まれ尽くしてしまったのです。」


 部屋の空気が凍りつく。


「読まれ……尽くす?」


 レンが思わず聞き返す。


「記憶にも寿命があります。」


 老人は本の白いページをそっと撫でる。


「誰かの想いは。」


「受け継がれることで生き続けます。」


「ですが。」


「意味だけを奪われ続ければ。」


「最後には殻だけが残る。」


 トワは、胸が締めつけられるのを感じた。


 目の前の白紙は、最初から何もなかったわけではない。


 誰かの人生があった証なのだ。


 その時。


 白紙の本に、新たな文字が浮かび上がる。


観測更新


空白の書 一冊確認。


消失ではない。


──読了。


 老人は、その最後の二文字を静かに見つめた。


「『読了』……。」


 その響きには、どこか終わりではなく、取り返しのつかない別れのような重さがあった。


 トワは白紙になった本を胸に抱く。


 神籍管理局は、忘れられた想いを未来へつなぐ場所。


 もし、その想いを最後まで読み尽くし、世界から消してしまう者がいるのなら。


 自分たちが守るべきものは、記憶だけではない。


 「誰かの物語が、誰かへ受け継がれていくこと」そのものなのだ。


 静かな夜の書架には、ページをめくる音だけが、遠くから聞こえてくるような気がした。

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