第102話
陽菜が帰ったあとも、神籍管理局には穏やかな空気が残っていた。
玄関の扉が閉まる音。
庭で鳴く蝉。
湯飲みから立ちのぼる、ほうじ茶の香り。
誰も急いではいなかった。
トワは書架の前に立つ。
新しく並んだ本。
背表紙には、小さな文字。
『朝顔が咲くたびに』
そっと指でなぞる。
温かい。
まだ出来たばかりの本だからだろうか。
紙から、夏の日差しの匂いがする気がした。
「また一冊、増えましたね。」
アオイが嬉しそうに言う。
「うん。」
トワも笑う。
その時だった。
「あれ……?」
書架の一番下。
いつもなら、依頼ごとの小さな栞が並んでいる引き出し。
そこが少しだけ開いていた。
トワはしゃがみ込む。
「誰か開けた?」
レンは首を振る。
「触ってない。」
老人も静かに答えた。
「私もです。」
引き出しの中には、依頼ごとに保管された栞が並んでいる。
桜の押し花。
古い切符。
風鈴の短冊。
星見町の提灯を描いた小さな紙片。
それぞれが、一つの依頼を象徴する「しおり」だった。
だが。
一か所だけ、空いている。
そこには何かが入っていたはずなのに。
ぽっかりと空間だけが残っていた。
「何があったんだろう。」
トワが呟く。
誰も答えられない。
老人は静かに引き出しを閉じようとして、ふと手を止めた。
「局長。」
「はい。」
「何がなくなったか。」
「思い出せますか。」
トワは考える。
一分。
二分。
思い返しても、何も浮かばない。
「……分かりません。」
レンも腕を組む。
「俺もだ。」
アオイも困ったように首を振る。
「空いていることは分かるのですが……。」
「何が入っていたのかだけ、思い出せません。」
部屋が静まり返る。
さくらだけが、空いた場所をじっと見つめていた。
やがて、小さくつぶやく。
「忘れたんじゃない。」
全員が振り向く。
「持っていかれた。」
その言葉に、老人の表情がわずかに変わる。
「……やはり。」
「先生?」
トワが問いかける。
老人は少しだけ考え込み、静かに話し始めた。
「局長。」
「人は記憶を失います。」
「ですが。」
「記録は、自分では歩きません。」
トワは息をのむ。
「じゃあ……。」
「誰かが。」
「記録を動かしています。」
その瞬間。
白紙の本が音もなく開いた。
今度は文字ではなく、真っ黒なインクが一滴だけ落ちる。
ぽたり。
白いページへ染みが広がる。
それは墨ではない。
まるで、夜そのものが落ちたような黒だった。
文字が浮かぶ。
警告
さらに。
観測を確認。
書架外より、閲覧者一名。
トワは目を見開く。
「閲覧者……?」
老人はその文字を見つめたまま、小さく目を閉じた。
「第零書架には。」
「司書だけではありません。」
その声は、今までで一番静かだった。
「読む者もいるのです。」
誰も言葉を発しなかった。
夏の風が、窓辺の風鈴を鳴らす。
ちりん。
その涼やかな音とは裏腹に、神籍管理局の空気には、初めて目に見えない緊張が満ちていた。
書架のどこかで、一冊の本がひとりでに閉じる音が響く。
ぱたん。
その音は、まるで誰かが遠くで本を読み終えた合図のようだった。




