第101話
応接室には、静かな嗚咽だけが響いていた。
陽菜は手紙を胸に抱いたまま、泣いていた。
声を押し殺すように。
小さな肩を震わせながら。
誰も慰めようとはしなかった。
悲しみには、急いで蓋をしなくていい。
それを、この場所にいる誰もが知っていた。
やがて涙が少しだけ落ち着くと、陽菜は袖で目元をぬぐった。
「……ごめんなさい。」
トワはゆっくり首を振る。
「謝らなくていいよ。」
「ここでは、泣いてもいい。」
陽菜は小さく頷いた。
老人が机の上へ、一本の鉛筆を置く。
短くなった、ごく普通の鉛筆。
「続きを書いてみますか。」
陽菜は止まっていた日記を見つめた。
八月三日。
途中で終わっている文章。
今日は、おじいちゃんと――
その先は白紙だった。
しばらく動かなかった手が、ゆっくり鉛筆を握る。
文字は、少し震えていた。
一文字。
また一文字。
部屋には、紙を擦る小さな音だけが響く。
書き終えると、陽菜はそっと鉛筆を置いた。
トワは読まなかった。
レンも。
アオイも。
誰一人、覗き込もうとしない。
「読んでも、いいです。」
陽菜が自分からノートを差し出した。
そこには、小さな字でこう書かれていた。
今日は、おじいちゃんと朝顔を見ました。
いっぱい笑いました。
その日の夕方、おじいちゃんは病院へ行きました。
もう家には帰ってきませんでした。
少しだけ文字が滲んでいる。
涙の跡だった。
けれど、その先には新しい一行があった。
だから、続きを書けませんでした。
部屋が静かになる。
その文章は、誰かに読んでもらうためではない。
陽菜自身が、自分の心へ向けて書いた言葉だった。
トワはそっと尋ねる。
「今なら。」
「続きを書けそう?」
陽菜は窓の外を見た。
庭では朝顔が風に揺れている。
少し考えてから、もう一度鉛筆を持った。
最後のページ。
ゆっくりと書き始める。
おじいちゃんがいない夏は、さみしいです。
でも、朝顔は今年も咲きました。
だから、わたしもがんばります。
そこで鉛筆が止まる。
陽菜は小さく笑った。
涙はまだ残っている。
それでも、その笑顔は昨日とは違っていた。
最後に、たった一行だけ付け加える。
来年も、いっしょに見てね。
書き終えた瞬間だった。
窓から吹き込んだ風が、日記のページをふわりと揺らす。
白紙の本が静かに開く。
今度は文字ではない。
一冊の新しい本が、書架へゆっくりと並んでいく。
背表紙には、小さく題名が浮かび上がる。
『朝顔が咲くたびに』
老人は目を細めた。
「……よく書けましたね。」
陽菜は少し照れながら笑う。
「まだ。」
日記を大切に抱きしめる。
「終わってないから。」
トワが首をかしげる。
「え?」
「夏休み、まだあるもん。」
その一言に、部屋の空気がふっと和らいだ。
レンが思わず笑い、アオイも口元を押さえる。
さくらは嬉しそうに手を叩いた。
老人は静かに頷く。
「そうですね。」
「日記は、思い出を書くだけのものではありません。」
「明日を迎えるためのものでもあるのです。」
帰り際。
陽菜は玄関で振り返り、大きく手を振った。
「また来ます!」
「宿題、見せに!」
元気な声が夏空へ響く。
トワも手を振り返す。
「うん、楽しみにしてる。」
その姿を見送りながら、老人は記憶樹を見上げた。
葉の間から差し込む光は、昨日までと同じなのに、どこか少しだけ明るく見えた。
悲しみは消えない。
けれど、その続きを生きる言葉は、自分の手で書いていける。
神籍管理局の書架には、また静かに一冊の物語が加わった。




