第百話
翌日。
陽菜はもう一度、神籍管理局を訪れた。
昨日よりも表情は少しだけ柔らかい。
肩から提げた小さな布の鞄が、歩くたびに揺れていた。
「おはようございます。」
「おはよう、陽菜ちゃん。」
トワが笑顔で迎える。
昨日ほど緊張した様子はない。
記憶樹のある庭を見つけると、自分から歩いていった。
「朝顔、咲いたね。」
庭の片隅では、青や紫の朝顔が朝日に向かって花を開いている。
陽菜は一輪を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……おじいちゃんも。」
「朝顔、好きだった。」
トワは何も聞き返さない。
ただ隣に立って、一緒に花を眺めた。
しばらくして、陽菜が続ける。
「毎朝ね。」
「何個咲いたか数えるの。」
「一つ咲くと。」
小さく笑う。
「今日はいい日になるって。」
その笑顔は、自然だった。
無理に思い出した笑顔ではない。
応接室へ戻ると、アオイが色鉛筆を机に並べていた。
「今日は文字ではなく、絵を描いてみませんか?」
陽菜は目を輝かせる。
「いいの?」
「もちろん。」
白い画用紙が一枚。
陽菜は迷わず緑色を手に取った。
次に茶色。
紫。
黄色。
鉛筆の音だけが静かに響く。
一時間ほど経った頃。
絵が完成した。
大きなひまわり。
縁側。
風鈴。
そして、笑っているおじいちゃん。
トワは絵を見つめた。
「素敵な絵だね。」
陽菜は少し照れながら頷く。
「去年の夏。」
「一緒に描いたの。」
去年。
その言葉に、老人が静かに目を上げた。
「去年……ですか。」
陽菜は無邪気に続ける。
「うん。」
「宿題も一緒にやって。」
「スイカも食べて。」
「花火も見た。」
そこまで話して、急に口が止まる。
「……あれ?」
眉を寄せる。
「変。」
部屋が静かになる。
「去年は。」
陽菜は指を折って数える。
「三年生。」
「四年生は今年。」
「だから。」
何かがおかしい。
目が少しずつ見開かれていく。
「でも。」
「おじいちゃん。」
「去年……。」
言葉が続かない。
胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。
老人は静かに椅子から立ち上がった。
陽菜の前まで歩き、膝を折る。
「思い出さなくても大丈夫ですよ。」
優しい声だった。
「今、苦しかったら。」
「今日はここまでにしましょう。」
陽菜は首を横に振る。
「ちがう。」
涙が一粒だけ落ちる。
「違うの。」
「思い出したい。」
その一言に、トワは胸が熱くなった。
昨日までは「思い出せない」だった。
今日は「思い出したい」。
それは、とても大きな一歩だった。
そのとき、応接室の窓から風が吹き込んだ。
机の上の日記が、ぱらりとページをめくる。
八月三日。
止まっていたページで止まる。
そして、その間に挟まっていた一枚の紙が、ふわりと床へ落ちた。
「これ……。」
トワが拾い上げる。
折りたたまれた、小さなメモだった。
子どもの字ではない。
ゆっくりと丁寧に書かれた、大人の文字。
陽菜へ
朝顔はね、毎年ちゃんと咲く。
だから、悲しいことがあっても大丈夫。
また夏は来る。
また笑える日も来る。
もし、おじいちゃんが先にいなくなっても、朝顔が咲いたら空を見上げてごらん。
きっと、おじいちゃんも見ているから。
陽菜は、その手紙を見つめたまま動かなかった。
ゆっくりと唇が震える。
「これ……。」
声にならない。
トワも、老人も、誰も言葉を挟まない。
やがて陽菜は、手紙を胸に抱きしめた。
涙があふれる。
「……おじいちゃん。」
その名前を呼んだ瞬間、ようやく止まっていた八月三日の時間が、静かに動き始めた。
窓の外では、一輪の朝顔が朝風に揺れ、まるで「思い出してくれてありがとう」と微笑んでいるようだった。けれど迷いもなかった。




